第1話 鐘が鳴ったら、どうぞご自由に
硝子宮の門をくぐった瞬間、まず匂いが来る。レモンの木。湿った土。それから、磨きたての金属。
天井まで硝子でできた王家の温室は、午後の光が真上から降ってくる。噴水があって、鉢植えのレモンとオレンジが等間隔に並んでいて、奥は背丈より高い生垣の迷路になっている。招待状には「庭園にて」と書いてあった。嘘ではない。ここは庭園だ。出口に鍵のかかった、硝子の箱に入った庭園。
参加者は32人。
全員がドレスを着ている。そして全員がドレスの上に何かを着けている。胸当て。籠手。腿に巻いた革のベルト。柄がやけに太い日傘があって、縁だけが陽を弾いて光る扇がある。誰も武器を持っていない。誰も武器を持っていないふりをしていない。
ごきげんよう、と声が飛び交う。全員が笑っている。誰も目が笑っていない。
「セシリア様!」
振り返ると、栗色の巻き毛が跳ねている。帳簿を抱えたミレイユ・デュノワが、人混みを縫って走ってきた。この距離の詰め方は学園にいたときと変わらない。
「賭けの受付を」
「今」
「今しかございませんもの。締切は鐘でございます」
「あなた、参加者でしょう」
「参加者ですわ。参加しながら胴元をやると倍率が跳ねますの」
商魂という言葉に足が生えたら、たぶんこの子になる。
帳簿は分厚い。留め紐が二重に巻いてあって、頁の端は指の脂で黒く光っている。この2週間、寝るときも抱いていたに違いない。
「私の単勝は」
「180倍」
「私の生存時間の予想は」
ミレイユが帳簿をめくり、それから、とても優しい顔をした。
「2分でございます」
「短い」
「わたくしは3分に賭けました。セシリア様なら、もう少しだけ粘れると信じておりますので」
「その微妙な信頼、いらないわ」
ミレイユが指した先を、つい目で追ってしまう。
生垣の前に、令嬢が一人だけで立っている。銀の髪をきつく結い上げて、黒いドレスには飾りがひとつもない。腰に提げているのは装飾でもなんでもない、実用の細剣。彼女の周りだけ、人の輪がぽっかり空いている。近づこうとした令嬢が、途中で進路を変えた。
「アデライド・グレンヴィル様。単勝1.1倍」
「儲からないわね」
「ええ。つまり、そういうことでございます」
鐘楼の下に人影が現れて、ざわめきが波のように引いた。
王太后エレオノール陛下。小柄で、しわだらけで、笑うと目がなくなる。おばあちゃんだ。どこからどう見ても、庭で猫に餌をやっているほうが似合うおばあちゃんだ。
「みなさま、ようこそ。堅苦しい挨拶は抜きにいたしましょうね」
どこかで唾を飲む音がする。
「わたくしがこの茶会を始めたのは、ずいぶん昔のこと。淑女とは何かを殿方に説明するのが、面倒でしたのでね」
小さな笑いが起きる。笑わない令嬢が半分いる。
「規約は読んでいらっしゃるわね。毒はいけません。品位に欠けますもの」
「陛下」
誰かが手を挙げた。
「勝利の条件は、相手を倒すことでよろしいのですか」
「さあ」
陛下は首を傾げた。心底、興味がなさそうに。
「わたくしが決めたのは、閉会の条件だけですの。あとはご自由に」
そして、しわだらけの手が上がる。
「では、みなさま。よい午後を」
鐘が鳴った。
残響が消えるより早く、私の左で悲鳴が上がる。
走る。走れない。裾は短く直してきたのに、それでも足に絡んで、3歩目で前へつんのめる。膝が土につく。その頭上を風が通った。
扇だ。刃を仕込んだ扇が、さっきまで私の首があった高さを水平に切っている。
「ごきげんよう、セシリア様」
「ごきげんよう。私、今とても忙しいの」
「わたくしもですわ。ですから手短に」
扇が返ってくる。私は膝で土を蹴って横へ転がり、鉢植えのレモンを引き倒した。鉢が割れて土が散り、相手が一瞬だけ目をつぶる。その隙に噴水の裏へ回り込む。
背中を石に預けて、はじめて自分の息の音を聞いた。心臓が耳の中で鳴っている。誰かが誰かを呼ぶ声。硝子に何かが当たる高い音。生垣の向こうで、束になっていた悲鳴が、ふっつりと途切れた。
覗く。
アデライド・グレンヴィルが、生垣の前から一歩も動いていない。足元に令嬢が4人倒れている。剣の腹で首の後ろを打たれたのだと倒れ方でわかる。誰も血を流していない。誰も起き上がらない。彼女は剣先の土を払い、それから、退屈そうに空を見上げた。
あれと戦うという選択肢は、私の中に最初から存在しない。
硝子の壁の向こう、外の芝生には天蓋つきの観覧席が並んでいる。日傘。銀の盆に載った葡萄酒。膝に置いた双眼鏡。誰かの父親と、誰かの婚約者と、賭けの札を握った紳士たち。壁一枚を隔てて、あちらは涼しい顔で笑っている。こちらの悲鳴はたぶん届いていない。
届かないほうがいい。あの顔で聞かれるくらいなら。
短剣を抜いて、自分のドレスの裾を切る。母のレースだ。祖母から母へ、母から私へ渡ってきたもの。切り離した端が噴水の水に落ちて、沈まずにゆっくり回っている。
……ごめんなさい。
軽くなった足で、生垣の迷路へ入った。
中は暗い。葉が厚く重なって光を吸うから、外の眩しさが嘘のように温度が下がる。曲がるたびに同じ景色で、足の下の砂利が湿っていて、どこかで水の滴る音がする。行き止まりに二度ぶつかった。三度目でようやく葉の壁に切れ目を見つける。
その奥に園丁小屋がある。
土のついた素焼きの鉢が積まれ、剪定鋏が壁に並び、床に藁が散っている。人がいた気配はない。私は中に入り、扉を閉め、木の閂を下ろした。
閂は思ったより頼りない。指で押すとたわむ。それでも下ろした瞬間に肩から力が抜けた。木の板が一枚あるだけで、世界がふたつに割れる。割れた静かなほうにいま私がいる。
外の音が遠のいた。走る足音も誰かを呼ぶ声も、板を隔てただけで他人の家の物音に変わる。
積まれた鉢に手をつく。掌に土がついた。この庭に来てから触ったもののうち、これがいちばん静かな手触りだった。
それからトランクを開ける。
中身は3点。紅茶の缶。小さなアルコールランプ。ティーセット一式。
武具は3点まで、と規約は書いていた。武具以外については、一行も書いていない。
喉が渇いている。走ったからだ。それに、考えをまとめたいときは手を動かすのが一番いい。
ランプに火を入れる。手が震えて、なかなか芯に届かない。何度目かでやっと灯がついたと思ったら、指の腹を炎に押しつけていた。皮の焼ける音がして、遅れて痛みが追いついてくる。
「……落ち着け、私」
声に出したら、少しだけ息が戻った。
水は噴水から汲んできた分がある。ポットを火にかけ、缶の蓋を開けて、茶葉をひとさじ。指先がじんじんして、さじの柄がうまく持てない。
湯が鳴りはじめる。細い音から、太い音へ。硝子の天井の下で、湯気がまっすぐ立ちのぼって、光の中で白くほどけていく。
小屋の中に匂いが満ちる。土と藁と埃の匂いを、紅茶が上から塗り替えていく。
カップに注ぐ。ひとくち飲む。熱い。舌が痺れて、それから、渋みの奥にちゃんと甘みがある。
生きている。とりあえず、2分は超えた。ミレイユの読みを裏切ってやったと思うと、渋みまで少し美味しい。
息を吐いて、二杯目を注ごうとしたとき。
背中で、閂の折れる音がした。
「――そこ。匂いがすごい」
振り返る。
開いた扉の前に、黒いドレスが立っている。飾りのない黒。きつく結い上げた銀の髪。下げた剣先から、土が一粒だけ落ちた。
単勝1.1倍がそこにいた。




