第0話 親睦茶会のご案内(裏面もお読みください)
『拝啓 セシリア・ヴァルモント様。このたびは第37回・王立親睦茶会へのご参加を、心よりお慶び申し上げます』
便箋を裏返す。
白紙のはずだった。白紙ではない。本文より一回り小さな字が、下のほうに一行だけある。
『※本茶会は会場内のご参加者が一名になるまで終了いたしません』
……ん?
もう一度、表に戻す。金の縁取り。王家の薔薇をかたどった封蝋。流麗すぎて半分読めない筆跡。どこをどう見ても由緒正しい茶会の招待状で、これが届いたとき私が真っ先に考えたのは、どのドレスを引っぱり出そうかということだった。
裏返す。
文面は変わらない。変わらないどころか、その下にもう一行ある。
『※武具のお持ち込みは、おひとりさま3点までとさせていただきます』
窓の外では侍女のハンナが薔薇を剪定している。空は水色で、雲は薄く伸びて、風はぬるい。なんでもない午後の光が便箋の縁で白く跳ねて、目に痛い。
「ハンナ」
「はい、お嬢様」
「この茶会、去年はどなたが行ったの」
「アニエス様と、ドロテア様と……あとは、お名前を存じ上げない方が何十人か」
「そのみなさま、今は」
ハンナが鋏を持った手を止め、少しだけ考える。
「アニエス様は北の修道院に入られました。ドロテア様は、たしかご療養中かと」
ぱちん、と鋏が鳴る。薔薇の首が土の上に落ちる。
私は便箋を膝に伏せた。伏せたところで文字が消えるわけでもないのに、そうしないと息ができない。
頭の奥に、引っかかっているものがある。淑女選抜戦。親睦茶会。生存者が一名。
……ああ。思い出したくなかった。
前世の私は寝る間も惜しんで乙女ゲームに齧りついていた。『薔薇の褥にくちづけを』。攻略対象は5人。ヒロインは修道院育ちの純朴な子で、そして私は――セシリア・ヴァルモントは、その子をいびり倒したあげく破滅する悪役令嬢だ。
そこまではいい。そこまでは知っていた。破滅の予定なら入学式の日から把握していて、ヒロインをいびる予定なんて一切なく、廊下ですれ違ったら道を譲るくらいの徹底ぶりでやってきた。
問題はこの茶会だ。
攻略情報の隅に、たった1行だけ載っていた。
――悪役令嬢セシリアは、淑女選抜戦にて脱落する。
脱落。私が知っているのはその一語だけだ。何が起きるのかも、どうすれば避けられるのかも誰が勝つのかも。前世の私はこの裏イベントを一度も見ていない。見ないまま、掲示板の書き込みを「ふーん」で流した。
あのときの私を殴りたい。
便箋の下にもう一枚。細かい字の紙が挟まっている。参加規約、と表題がある。
『第一条 参加者は淑女として、常に品位を保つこと』
品位。成績表で私に優をくれた、数少ない分野のひとつだ。
紙をずらす。第一条の次が第四条で、二条と三条がどこへ行ったのかは、この紙には載っていない。
『第四条 毒物の使用は品位に欠けるため、これを禁ずる』
毒はだめなんだ。
『第七条 開会の鐘から閉会の鐘まで、会場からの退出はできません』
閉会の鐘の条件は、さっき裏面で読んだ。
『第九条 優勝者には、王太后陛下より直々にお茶をお淹れいただきます』
「……賞品が、お茶」
「まあ、光栄なことでございますね」
「ハンナ、あなた今、笑ったでしょう」
「第一条を守っているだけでございます」
私は規約を封筒に戻し、それを持って階下へ降りた。
父は書斎にいて、招待状を一瞥もしない。羽根ペンを置きもしない。
「これ、断れますか」
ペン先が紙を掻く音は途切れない。返事より先に、収支の行がひとつ埋まる。
私は封筒の角を指で潰しながら待った。
「ヴァルモント家の名を返上すればな」
インクの匂いがやけに濃い。父の手元では領地の収支報告が半分ほど埋まっていて、うちの領は痩せていて、王都の屋敷は見栄で建っている。私の社交はその見栄を維持するための仕事だ。名を返上する。つまり、この家にいる全員が明日から別の人生になる。
「みなさま、よくお出しになりますね」
「知らんで出す親がおるか」
羽根ペンの穂先がインク壺に沈み、縁で二度しごかれた。
罫が細かい。線と線のあいだに、村ひとつぶんの実りが収まっている。
「儂の親の代までは、家をひとつ潰すのに兵が要った。いまは招待状で足りる。そのかわり、めったに潰れん。名を返したまま社交界に座っておる家は、いくらでもある」
「では、うちも」
「返したあとに残るものがある家は、な」
父の左手は、さっきから同じ紙の端を押さえている。話が進むほど、その端が指の下で反っていく。
窓は閉めきってある。庭の音はひとつも入ってこない。
「規約の第九条を読んだか」
「読みました」
「あれ目当ての家が、儂の知るかぎり3つある」
カップ一杯のために、家が3つ。
どう考えても釣り合わないのだけれど、父の目はもう紙に戻っていた。
「お父様は、行ってこいと」
「儂は何も言わん」
父がやっと顔を上げた。
「ただ、お前の母はな。あの茶会の話を聞くたび、馬鹿げていると笑っておった」
「……そんな話、一度も」
「セシリア」
「はい」
「勝たなくていい。帰ってこい」
ずるい。そんな言い方をされたら、断れないに決まっている。
部屋に戻って、机の抽斗から成績表を引っぱり出す。
剣術・可。体術・可。乗馬・可。魔法実技・不可。
優が並んでいるのは社交儀礼と刺繍と歴史だけで、実技はきれいに底を這っている。学年最下位を争う相手すらいない。争わずして最下位だ。
「お嬢様は、嫌味の腕なら学年首席でいらっしゃいます」
「そんな科目、ありませんけれど」
ハンナは真顔のまま、トランクの留め金を外した。荷造りだ。武具は3点まで。
剣を持ってみる。重い。両手で持ち上げた時点で肩が笑って、切っ先が床に落ちる。杖を握ってみる。魔法実技・不可。護身用の短剣を鞘から抜いてみたら、自分の指を切った。
「お嬢様」
「言わないで」
窓の外はもう夕方で、薔薇の首が落ちたあたりだけ土が黒い。
開会まであと2週間。
その間、ハンナは屋敷じゅうの侍女網を動かして噂を集めてきた。この子の情報網は王宮の諜報部より速い。
「参加者は32名だそうです」
「多いわね」
「例年よりずっと少のうございます。ご辞退が相次いだとか」
「出なくても、いいのね」
辞退はできます、とハンナは答えた。それから、家名と引き換えに、と付け足した。
できないのと同じだ。
「本命は、グレンヴィル公爵家のアデライド様」
「……あの方、出るの」
「昨年から備えていらしたそうで。朝は鍛錬、昼も鍛錬、夜は剣の手入れ」
「ご趣味は」
「剣の手入れかと」
紅茶の湯気が私の顔の前で止まっている。カップを口に運ぶのを忘れていた。
アデライド・グレンヴィルとは、去年の夜会で挨拶を交わしたきりだ。差し出された手袋は、握るところだけ革が硬く光っていた。使い込んで艶の出る場所というのは、鞄でも手綱でも決まっている。
ハンナは私の返事を待たずに、次の噂へ移った。
「それから、デュノワ子爵家のミレイユ様が賭けを開いていらっしゃるとか」
砂糖壺の蓋が、私の指の下でかたりと鳴った。
「どなたが優勝なさるか。アデライド様は1.1倍でございます」
「私は」
ハンナが目を逸らす。庭の薔薇のほうを、たいそう熱心に見ている。
「言いなさい」
「……180倍でございます」
「悪くないじゃない。私に賭ければ大儲けよ」
「わたくし、アデライド様に賭けました」
「ハンナ!」
紅茶はすっかりぬるくなっていて、舌に残るのは渋みだけだった。
前世の知識はこういうとき本当に役に立たない。攻略対象の誕生日なら5人ぶん言える。ヒロインの好きな花も、彼女が終盤で泣く場所も言える。でも剣を提げた令嬢が32人ひしめく硝子張りの庭でどこに座っていれば生きて帰れるかは、どのページにも書いていなかった。
私はその2週間、剣を振らず、走り込みもしなかった。代わりに毎日、庭の椅子に座って規約を読み返す。武具は3点まで、と規約は書いている。武具以外については、一行も書いていない。
会場は王都の外れにある硝子宮だと聞いた。王家の温室で、天井まで硝子で、噴水とレモンの木と生垣の迷路がある。逃げ場はない。籠城もできない。剣を振れば勝つ人がいて、私はその人ではない。ならば、私にできることを数えるしかなかった。
私にできること。紅茶を淹れること。人の話を聞くこと。相手が何を欲しがっているか、顔を見て当てること。社交という名前で12年やってきたのは、要するにそれだけだ。
ドレスの裾を短く直させ、靴の踵を削らせ、コルセットの紐を指2本ぶんゆるめる。ハンナは何も聞かずに針を動かして、最後に一度だけ手を止めた。
「お嬢様。勝ちにいらっしゃるのですか」
「まさか。帰りにいくのよ」
そして最終日の夜、トランクに詰めるものを決めた。
刃物でも杖でもない。




