第9話 品位に欠ける、とおっしゃいますと
夜が明けきる前に起きていたのは、私だけではなかった。
ソフィ様が剣を抜いて扉のそばに立ち、オルタンス様が板の隙間から外を覗いている。マルグリット様は鉢を積み直して、いつでも崩せるようにしていた。リュシー様だけが、消えたままのランプを膝に抱えて座っていた。
「何人?」
「3人」
「武器は」
「持ってない。書類挟み」
ソフィ様の剣先がわずかに下がった。
「……それがいちばん厄介ですわね」
革の靴は砂利の上でも遠慮なく音を立てる。
自分がここにいてよい場所にいる、と思っている人の歩き方だ。私たちは全員、この庭で足音を殺すことを覚えたのに。
小屋の前に立ったのは3人だった。真ん中の一人だけが年配で、あとの二人は書類挟みを抱えている。
「おはようございます、みなさま」
中肉中背。柔らかい声。眼鏡の縁が細い。笑うと目尻に皺が寄って、王都の商店なら常連客に覚えられるたちの顔だ。
「典礼省の者でございます。少々よろしいですか」
ソフィ様が剣に手をかけたので私は先に前へ出た。
「どうぞ。カップが足りませんので、鉢になりますが」
「お構いなく」
彼は小屋の中を覗き込んで、それから、とても申し訳なさそうに眉を下げた。
「過度の親睦は、品位に欠けます」
「品位」
繰り返してみると、軽い音の言葉だった。刺繍や乗馬と同じ棚に載っている。
その軽いもので、人が減る。
「第一条にございます。参加者は淑女として、常に品位を保つこと」
「保っております」
「保っていらっしゃるようには見えませんが」
「背筋を伸ばして飲んでおります。音も立てておりません」
背後で、ソフィ様が小さく吹き出した。
「……そういう意味ではございません」
「では、どのような」
審判官の笑みがわずかに硬くなる。
「参加者どうしが徒党を組み、勝敗を回避する行為は、本茶会の趣旨に反します」
「それは、第何条でしょう」
沈黙が落ちた。
朝の光が硝子の天井から真下に降りて、生垣の影が砂利に細く伸びている。どこかでレモンの葉が擦れた。
「第一条から第九条まで、暗記しております。趣旨という言葉は、一度も出てまいりません」
「規約には、追補がございます」
「拝見しておりません」
「送付済みでございます」
「うちには届いておりません」
私は一歩だけ前に出た。相手の顔から目を離さない。社交で覚えたことのうち、いま役に立つのはこれくらいだ。
書類挟みを抱えた二人は一度も口をきかない。年配のほうが喋るあいだ、同じ角度で紙を見ている。
「守れない規約で、退出させられるのですか」
「口頭で通達いたします」
「では、書面でいただけますか」
「口頭で十分でございます」
「何をお守りすればよいのか、わかりかねます」
「あなた、規約をよくご存じですね」
「開会まで2週間ございましたので」
「お稽古はなさらなかったので?」
「剣が持ち上がりませんでしたから、代わりに紙を持ちました」
嘘ではない。あの2週間、私は毎日庭の椅子に座って、同じ紙を読み返していた。読み返しても何も出てこなかった。出てこなかったからこそ、そこに書いていないことなら全部言える。
審判官の目が一度だけ小屋の中へ滑った。
私を見ていない。奥の壁際で固まっている4人を順に見ている。
数えたのだ。この人が気にしているのは品位ではない。数だ。
「ここには5人おります。5人とも、まだ旗が上がっておりません」
眼鏡の縁が、ほんのわずかに持ち上がった。
「減らないと、お困りですか」
笑みが消えた。消えたあと、もう一度、同じ形に戻る。戻し方が速い。これを何百回もやってきた顔だ。
「では、ご提案がございます」
彼は書類挟みから一枚を抜いて、私の目の高さに掲げた。文字が細かい。日付と、名前を書く欄と赤い印。
「ご署名をいただければ、こちらのみなさまは全員、本日中に無事お帰りになれます。ご一緒に退出門へ。書類は一括で処理いたします」
小屋の中で、誰かが息を吸う音がした。
誰も、いま、と言わない。言えば決まってしまうことを、全員が知っている。
「その書類の表題は、なんとお読みするのでしょう」
「……そこまでご覧になりますか」
「読みます」
彼はしばらく考えて、それから紙を書類挟みへ戻した。
「またの機会に。本日はご挨拶まで」
彼は帽子を取って、丁寧に礼をした。角度まで完璧な礼だった。
そして、背を向けたまま言った。
「そういえば。ヴァルモント家の領地の件、お父上によろしくお伝えください」
喉の奥がすっと冷える。
「痩せた土地は、手放したほうがよろしいこともございます。ご領主のご判断ですが」
返事を待たずに、革の靴は生垣の向こうへ消えていった。
しばらく、誰も動かなかった。
私は生垣の切れ目まで歩いて、硝子壁のほうを見た。
遠い。ここからでは天蓋席の色しかわからない。それでも白い点がいくつも動いているのが見える。双眼鏡だ。こちらを見ている。
あの人たちは私たちが減るのを見に来ている。減らなければ、たぶん退屈する。退屈したとき、どうなるのだろう。
硝子の中に風は吹かない。
「セシリア様。顔、真っ白です」
「そうですか」
「震えてます」
「そうですか」
リュシー様が私の手をとって、自分の両手で包んだ。この子の指のほうが冷たい。冷たいのに、あたためようとしている。
震えは止まらない。両手のあいだで、温度だけがゆっくり混ざっていく。
「勝ちましたよね、今の」
「勝っていません」
「でも、追い返しました」
「向こうは、押し返される用意をして来ています」
言いながら、自分でも意味がわかっていない。ただ、あの人が本当に取りに来たのは私の理屈ではなかった、という感触だけが残っている。
朝の光が、砂利に残った革靴の跡を照らしている。踵の減り方が左右で違う。
「あなた、怖くありませんの」
ソフィ様が剣を鞘に戻しながら聞いてくる。
「怖いです」
「そんなふうにはお見えになりませんでしたわ」
「12年やっておりますので」
「何をですの」
「怖い人と、笑いながら話すことを」
ソフィ様がしばらく黙った。
鞘に戻した剣の柄を、手のひらで撫でた。今日も使わなかった。
「……社交って、地獄ですのね」
「毎日ございました」
オルタンス様が扉の外を覗いて、それから戻ってきた。
板の隙間から入る光がもう白い。朝はとっくに来ている。
「行ったよ。3人とも。……ねえ、領地の話って何?」
「うちの領は痩せています。父が毎年、収支の帳面と睨み合っています」
「それを、あの人が知ってた」
小屋の中がまた静かになった。
この庭に入ってから、私は自分の家を遠いものだと思っていた。硝子の外にあって、届かなくて、だから安全なのだと。
そうではないらしい。硝子は向こうからこちらへはいくらでも通る。
「今日から、1日に2杯にします」
私は缶を持ち上げて、みんなに見せた。
「5人で!?」
「回します」
「薄いですわよ」
「薄くします。文句は受け付けます」
誰も本気では怒らない。じゃあ鉢は小さいのにしましょう、とマルグリット様が言う。リュシー様は「私、半分でいいです」。オルタンス様が「わたしは倍がいい」と言って、全員に睨まれた。
残りは21杯ぶん。1日に2杯なら、10日は保つ。
その夜、私はなかなか眠れなかった。
思い出していたのは父の書斎の匂いだ。インクと、埃と、めくられないまま積まれた帳面。あの部屋で父は勝たなくていい、と言った。あの言葉の値段を私はまだ知らない。
うちの領は北向きの斜面ばかりで麦の育ちが悪い。良い土地ではない。良い土地ではないから誰も欲しがらないのだと、私は勝手に思っていた。
でもあの人は手放したほうがよいと言った。
手放させたい人がいる、ということだ。手放させたい人がいるなら、欲しがっている人がいる。
それが誰なのかを私は知らない。知らないのに、うちの帳面の中身だけは向こうが知っている。
目を閉じると革の靴の音がした。
うとうとして、目が覚めた。
まだ暗い。寒い。
扉が開いている。閂は折れているのだから、蝶番の傾きだけでも開く。何度も勝手に開いてきた。
私は起き上がって、扉を閉めようとして――手が止まった。
棚が軽い。
いや、棚は棚のままだ。軽く見えるのはそこに載っていたものがないからだ。
紅茶の缶がない。
棚に手を伸ばす。埃の上に、丸い跡だけが残っていた。跡の縁はまだくっきりしている。ついさっきまでそこにあった。
振り返る。
藁の上で3人が眠っている。
昨日の夜は4人だった。




