第10話 缶が、ない
棚に、丸い跡が残っている。
跡というのはそこに何かがあったという意味だ。あったものがいまはない。
そこまで理解するのに、私はずいぶん長いこと突っ立っていた。
棚の下を見る。藁を掻き分け、ランプの陰を覗き、鉢の山の裏まで手を突っ込む。トランクの中も改めた。
どこにもない。
置き忘れるようなものではない。私はあの缶を1日に何度も開けている。開けるたびに残りを数えて、数えるたびに気が重くなって、それでも蓋の閉まる音で少しだけ安心していた。
置き忘れるわけがない。
扉は閉まらない。閂は折れたままで、指一本で押しても開く。あの人は夜のあいだ、私のすぐ隣で眠っていた。起き上がって、棚まで三歩、扉まで四歩。誰も起きない。起きるはずがない。私たちはこの小屋を、眠れる場所だと思っていたのだから。
「セシリア様?」
リュシー様が半分だけ目を開けている。
「オルタンス様は」
「え……」
この子が起き上がって、小屋の中を見回して、それから私の顔を見た。
視線が棚のところで一度引っかかる。丸い跡に。
「あの、缶」
「ありません」
「……両方?」
「缶も、オルタンス様も」
ソフィ様が藁を蹴って立ち上がる。剣を掴む速さが私の理解の速さより上だった。
「追いますわ」
「どちらへ」
「……どちらへでしょう」
止まる。この人でも行き先がわからなければ走れない。
マルグリット様は座ったまま、両手で顔をこすっていた。
「うそ。あの人、昨日わたくしの髪を結ってくれたのよ」
そういう人だった。よく笑ってよく喋って、誰よりも働いて、人の髪まで結う人だった。
4人で小屋をひっくり返した。
藁を端に寄せ、鉢をひとつずつ下ろして、床板の隙間まで覗く。ソフィ様が鉢を落として割った。マルグリット様が「割れた!」と叫んで、それから「割れたところで缶は出てきませんわね」と付け足す。誰も笑わない。
リュシー様はランプの前から動かなかった。火を入れる相手がいない朝は、この子の仕事がない。
「私が、寝てしまったからです」
「関係ありません」
「起きていました。夜中までは」
「途中でやめたら、見張っていないのと同じです」
この子はこういうところが厄介だ。
外は白い。夜明けの硝子宮は、色が戻る前の時間がいちばん長い。
生垣の迷路を抜けて、レモンとオレンジの並木へ出る。当てがあったわけではない。この庭でまっすぐ歩ける道は、そう多くないというだけの話だ。
いた。
鉢植えの列の端。オレンジの木の根元に腰を下ろして、膝に缶を載せて、彼女はこちらを見ていた。
逃げていない。隠れてもいない。待っていた。
「おはよう」
膝に載った缶の蓋が、朝の光で白く光っている。
「早いのね」
「缶がなかったので」
「そうよ。わたしが持ってるもの」
あっさり言われて、次の言葉が出なかった。頭のどこかがまだ違う筋書きを探している。落として拾ってくれたとか、洗いに来たとか、そういう筋書きを。
「返していただけますか」
「いやよ」
「なぜ」
「返したら、意味がないでしょう」
彼女は缶の蓋を指で叩いた。かん、と軽い音がする。中身が減っているぶん、音が高い。
私は息を吸った。社交の場でなら、私はまだ戦える。相手が何を欲しているのかを顔から当てて、それを差し出すのが12年やってきたことだ。
オルタンス様の顔を見る。
読めないわけではなかった。読めるのに差し出せない。この人が欲しいのは水で、水を持っているのは私ではない。
「……何か、差し上げられるものがあれば」
「ないわよ」
「ひとつも」
「あなた、自分が何を持っているか数えたことある? 紅茶と、ランプと、茶器。しかも紅茶は、いまわたしの膝の上」
正確だった。正確すぎて、少し笑いそうになる。
「うちね、水を押さえられているの」
水。金でも家名でもなかった。
「領地の水利権。3年前に典礼省に握られたわ。うちの畑の水は、あちらの許可がないと流れないの」
声の調子は変わらない。天気の話をしているみたいだった。
3年。私がドレスの流行を追いかけていたあいだ、この人の家の畑は誰かの許可を待っていた。
「だからね、頼まれたら断れない。缶を持ってこいと言われたら、持ってくるしかないでしょう」
「誰にです」
「そこまでは言わない。言ったら、うちの水が止まるから」
朝の光が並木の隙間から落ちてきて、彼女の髪の色を明るくしている。オレンジの実が頭の上でひとつ揺れた。
「オルタンス様。あなた、毎日笑っていらっしゃいましたよね」
「そうよ。楽しかったもの」
「楽しかったのと、これは別」
彼女が立ち上がる。缶を抱え直して、まっすぐ私の顔を見た。
初めて、目のほうが笑っていない。
「ねえ。わたし、拾われる前は一人だったの」
うなずくしかない。ここで否定できることが、ひとつもない。
「東の門のそばで、ずっとしゃがんでた。誰も来なかった。誰もわたしにお茶なんて淹れてくれなかった」
「私が」
「あなたが通りかかったから、拾われたのよ。ほかに理由はないわ」
喉が渇いた。水はすぐそこの噴水にあるのに、飲みに行く気になれない。
「拾われて、うれしかったわ。ほんとうよ。でもね、うれしかったぶんだけ腹が立つの」
「なぜですか」
「あなたが通りかかる前のわたしは、誰のせいでもなかったんだって、思い知るから」
言い返す言葉を探した。探しているあいだに、彼女は缶を持ち上げて、朝の光に透かすようなことをした。
「それにね」
声の温度が、ここだけ下がった。
「あなたの紅茶がなくなれば、あなたはただの最下位よ」
オルタンス様が歩き出す。
私は追いかけた。走った。すぐに息が上がる。裾を踏んで膝から土に落ちた。
体術・良と体術・可。良と可のあいだは、成績表の上ではたった一段だ。その一段が並木の端から端ぶんある。
顔を上げると、蜂蜜色はもう並木の向こうだった。振り返りもしない。
土の匂いがする。硝子宮の土は外のそれより湿っていて、日が当たるのに風が通らないから、いつまでも乾かない。
私はしばらくそのままでいた。起き上がる理由が、すぐには見つからない。
膝が痛い。裾がまた裂けた。ここへ来てから、母のドレスは元の形をほとんど失っている。
帰り道の途中で、生垣の向こうから走る音がした。
追っている音と追われている音。私はそれを聞きながら歩いた。止まりもしない。
少し前の私なら、覗きに行ったと思う。行って、何もできずに突っ立っていたはずだ。いまは足が止まらない。缶を取られたことで頭がいっぱいで、他人の足音が入ってくる隙間がない。
それに気づいて、少しだけ怖くなった。
小屋へ戻る道は来たときより長い。手ぶらだった。缶も言い返す言葉も、ひとつも持って帰れない。
棚はやっぱり空だった。丸い跡だけが朝の光でよく見える。
3人が私の手元を見ている。見て、何もないことを確かめて、それでも誰も口を開かない。
ソフィ様が剣を鞘に納めた。マルグリット様が鉢を積み直しはじめる。意味のない作業だ。意味のない作業しか、いまは残っていない。
私は空の棚の前に立った。そこで、自分の手が震えているのに気づく。怒っているのだと思ったけれど、少し違う。缶を取られたことより、あの人の最後の一言のほうが深く入っている。
ただの最下位。
そのとおりだった。剣は振れない。走れもしない。私にできるのは湯を沸かすことで、湯を沸かすためのものは、いま並木の向こうにある。
水は汲める。火も入る。肝心の中身だけがいまここにない。
リュシー様だけが動かなかった。
この子は棚の丸い跡をじっと見ていて、それから、私の背中に向かって言った。
「……明日、どうするんですか」




