第11話 まずくても湯気は立つ
明日どうするのか。
その問いに、私は一晩かけて何も思いつかなかった。
朝になって目を開けて、天井の板を見上げて、それでもまだ思いつかない。
思いつかないまま起き上がったら、小屋の中に誰もいなかった。
慌てて外へ出る。
「おはようございます!」
リュシー様が両手いっぱいに葉っぱを抱えて立っていた。
「……何ですか、それ」
「葉っぱです」
「見ればわかります」
「レモンの葉です。あと、生垣のと、あっちの白い花のと。毒だったらどうしようと思って、ソフィ様に食べていただきました」
「わたくし、毒味役ではありませんわよ」
ソフィ様が口の端を拭っている。
舌を出して、すぐ引っ込めた。緑がかった色がついている。
「苦いですわ。ですが死んではおりません」
「死んでいないなら合格です」
「基準が低い!」
マルグリット様は少し離れたところで、摘んできた葉を選り分けていた。虫食いのあるもの、乾きすぎているもの、色の悪いものを容赦なく捨てていく。
「あなた、詳しいんですか」
「実家の庭が広いだけですわ。庭師が三度も辞めるくらい広いの」
辞めた理由が気になったけれど、聞かないでおいた。
マルグリット様の言葉遣いは、外にいるときと小屋の中とで少し違う。硝子壁ぎわでは語尾がきちんと立っていて、ここでは崩れる。
「あなた、ここだと喋り方が違いますね」
「見られておりませんもの。崩れますわよ、誰だって」
抱えてきた葉を全部まとめてみて、私は言った。
「足りません。4人ぶんには足りません。もう一度、行きましょう」
「わたくしも?」
「ソフィ様、剣をお持ちですよね」
「持っておりますけれど、これは葉を切る道具では」
「切れますよね」
「……仕方ありませんわね」
4人そろって、鉢植えの並木まで出た。
昼の並木は夜明けのそれとは別の場所みたいだった。真上から日が落ちて、葉の一枚ずつが白く光る。実は黄色と橙で、手の届く高さのものはもう誰かが落としている。落として、齧って、酸っぱくて捨てたらしい。齧り跡のついた実が根元に転がっていた。
「高いところなら残っておりますわ」
ソフィ様が剣を抜く。優の腕前が枝を落とすために使われている。ぱさ、と葉ごと落ちてきて、リュシー様が拾い集めた。
「ソフィ様、すごいです!」
「……剣術の稽古で、いちばん褒められなかった技ですのよ、これ」
「なぜです」
「枝を落とすのは剣士の仕事ではない、と」
「今は役に立っています」
この人の耳が少しだけ赤い。
並木の途中で、生垣の隙間に人影を見た。
こちらを見ている。目が合うとすぐ引っ込んだ。追いかける気にはなれない。
この庭にはまだ10人いる。私が名前を知っているのは、そのうち7人だけだ。
ランプに火を入れる。水を注ぐ。葉を放り込む。
湯が沸くまで6分。
この6分だけは缶があってもなくても変わらない。世界で唯一、私から取り上げられなかったものが時間だというのはなんだか腹が立つ。
一度目は失敗した。葉を入れすぎて、湯より葉のほうが多くなる。
二度目は水を足しすぎて、色も匂いもほとんど出なかった。
三度目で、ようやく飲み物の形になる。三度ぶんの燃料を使ったので、ランプの油が目に見えて減っていた。
油も増えない。
色は出た。
黄緑がかった、なんとも言いようのない色だ。琥珀とは似ても似つかない。それでも湯気は立つ。まっすぐ立って、硝子の天井のほうへ上がっていく。
匂いは薬草を煮た匂いがした。
「どうぞ」
カップが2つと鉢が2つ。全員に行き渡る。
最初に口をつけたのはマルグリット様で、彼女は一口飲んで、まっすぐ私の目を見て言った。
「まずいですわ」
「はい」
「本当にまずい。これ、飲み物ですの?」
「湯です。葉っぱの入った」
ソフィ様が飲んで、眉間に深い皺を寄せて、それでも黙って飲み干した。
「なぜお飲みになるんですか」
「まずいと申し上げてから残すのは、失礼ですもの」
「順番が逆では」
「まずいものをまずいと申し上げるのは礼儀ですわ」
言い切って、鉢の底まで飲み干した。
リュシー様は飲んで、顔をくしゃっとさせて、それから小さく「おいしいです」と言った。
「嘘です」
「……はい」
「無理をしないでください」
「でも、私が摘んできたので」
「まずいのはあなたのせいではありません。煮たのは私です」
自分のぶんを飲む。
苦い。舌の奥に刺さる苦みで、飲み下したあとも喉の内側に居座る。井戸まで行く元気がなくて噴水から汲んだ水は土の味がして、レモンの葉は苦くて、白い花はどうやら何の役にも立っていない。
飲みながら、考えていた。
紅茶の人、と何人かに呼ばれた。あの小屋には紅茶を淹れる令嬢がいる、という話が、どうやら硝子の中をひと回りしたらしい。
その紅茶がない。
では私は何だろう。
葉っぱを煮ただけの湯を配って、みんながまずいと言いながらそれを飲んで、それで何かをしているつもりでいる。
鉢の縁を指でなぞった。ざらざらして、爪に粉がつく。この感触にももうすっかり慣れた。
「セシリア様。息の吸い方でわかりますわよ」
ソフィ様が鉢を置いた。
土間に置くとき、ソフィ様は音を立てない。剣を置くときだけ音が出る。
「何がです」
「自分はもう用済みだ、と思っている方の吸い方ですの。わたくし、よく存じておりますのよ。毎朝、自分でやっておりますから」
「……」
「申し上げておきますけれど、わたくしはあなたのお茶を飲みに来たのではありません」
「では、何をしに」
「存じませんわ。それを知りたくて残っているのですから」
答えになっていない。答えになっていないのに、こちらの喉のつかえが少し取れた。
理由を持っていない。持っていないまま、ここに残っている。
「わたくしは、見てもらいに来ましたのよ」
マルグリット様が鉢を持ち上げる。
空になった内側に、緑の粉が輪になって残っていた。
「誰かが飲んでいるところを、誰かが見ている。それがあると、ここにいる感じがしますでしょう」
「まずくても?」
「まずいと言い合えるほうが、ここにいる感じがしますわ」
リュシー様が空になった鉢を抱えて立ち上がった。
指先が緑に染まっている。朝から葉ばかり触っているからだ。
「私、また摘んできます」
「まずいですよ」
「次はもっと上手に摘みます」
「明日はどうしましょう」
「葉っぱです」
「明後日は」
「葉っぱです」
「その次は」
「葉っぱしかありません」
全員が黙った。それから、マルグリット様が先に吹き出した。
誰も紅茶の話をしなかった。
午後、私は水差しを持って出た。
噴水ではなく、生垣の奥の井戸へ行くつもりだった。噴水の水は土の味が強すぎて、葉を煮ても隠れない。井戸のほうがましだとマルグリット様が言うので、試してみることにする。
迷路の中は相変わらず暗い。葉が光を吸って、昼でも足元がよく見えない。
右、左、右。道はもう覚えた。覚えたぶんだけ速く歩けるようになって、そのぶん、曲がり角の向こうが見えない怖さが増している。井戸はいちばん奥にある。奥まで行かないと、ましな水は手に入らない。
その暗がりの向こうで悲鳴が上がった。
女の子の声だ。短くて、高くて、途中で切れる。
走った。走れないなりに走って、行き止まりを二度間違えて、それから開けた場所に出る。
誰かが倒れていた。
うつ伏せで、片手が前へ伸びている。背中が動いていない――いや、動いている。浅く、速く。
その指の先に、素焼きの鉢が転がっていた。
園丁小屋の棚にあるのと同じ形の鉢だ。
中身がこぼれて、地面に黒い染みを作っている。
膝をついて、顔を近づける。
匂いを嗅いだ。
紅茶だ。
うちの紅茶の、匂いがする。




