第12話 旗の上がらない毒
肩に手を置いた。名を知らない相手に、どう呼びかければいいのかわからない。
返事はない。
息はしている。浅くて、速い。唇の色がおかしい。指に触れると、この暑い庭にいるとは思えないほど冷たかった。
「誰かに、何かをもらいましたか」
まぶたが動く。
「……お、ちゃ」
「誰に」
「かみの、きれいな」
蜂蜜色。
立ち上がって、迷路の入口まで走る。それから、大声を出した。恥も外聞もない声だった。淑女がこの庭で出していい種類の声ではない。
しばらくして、役人が二人来た。
彼らはこの子を担架に載せて、それから地面の鉢をちらりと見た。
「これも、お持ちください」
「規定の回収物ではございません」
担架が持ち上がるとき、この子が私の袖を掴んだ。
「クロエ」
指が布を掴んだまま離れない。
まだ言い終わっていない顔だった。
「ボワイエ家の、クロエ」
「……セシリアです。ヴァルモントの」
「知ってる。紅茶の人」
それだけ言って、目を閉じた。
竿の上で、白い布がひとつ増えた。23本。残りは9人。
私は名前を知らない人を見送るところだった。あと少しで、知らないまま終わっていた。
鉢を拾う。底に、こぼれ残りが少しだけある。
小屋へ戻って、起きたことを話した。
話し終わるより先に、ソフィ様が剣を掴んでいた。
「行きますわ」
「どちらへ」
「あの方のところへ決まっておりますでしょう」
「私が行きます」
「あなたが行って、何ができますの」
「何もできません」
「では」
「何もできない人間が行くほうが、まだましです」
言ってから、自分でもよくわからない理屈だと思った。
ソフィ様は柄を握ったまま、しばらく私を見ていた。それから手を離す。
「……お一人で行かせるのは、これが最後ですわよ。次はついていきます。止められても」
「はい」
マルグリット様が水差しを差し出してくれた。リュシー様は何も言わずに、私の裂けた裾を結び直している。
鉢を持って、私は並木へ向かった。
オレンジの木の根元に彼女はいた。
昨日と同じ場所で、同じ格好で座っている。膝の上に缶。手に鉢。
湯気は立っていない。飲み終わったあとだ。
「オルタンス様」
「あら」
「何をしているんですか」
「見ればわかるでしょう。あなたの缶で淹れたお茶よ」
「あなた、待っていたんですか」
「そんなわけないでしょう」
「昨日も、今日も、ここにいらっしゃいます」
「……居場所がここしかないの」
彼女は缶の蓋を指の腹で撫でた。
昨日は叩いていた。今日は撫でている。中身の減り方が、指のほうに出ている。
「小屋には戻れないでしょう。門もくぐりたくない。だからここ」
「戻ってきてもよかったのに」
「よくないわよ」
「よかったです」
「……そういうところが、腹が立つのよ」
彼女は鉢を傾けて、底に残っていたぶんを飲み干した。
「……やめてください」
「なんで」
「その茶葉、おかしいです」
言った瞬間、彼女の動きが止まった。
鉢の縁が唇から離れて、そこで宙に留まっている。
「さっき、女の子が倒れました。あなたのお茶を飲んで」
オルタンス様が私を見る。それから、自分の手の中の鉢を見た。
顔から色が抜けていく。抜けるところがはっきり見えた。
「……嘘」
「嘘じゃありません」
「だって、これ、あなたの缶よ」
「私の缶に、そんなものは入っていません」
彼女が立ち上がろうとして、膝が折れた。
私は駆け寄って、抱き起こす。重い。人というのはこんなに重いのか。
「オルタンス様」
「……渡されたの」
「何を」
「別の袋。中身を移せって言われた。移して、あなたのところへ戻せって。……返しに行くつもりだったの。今日、これから。だから、味見を」
喉が詰まった。
オルタンス様は返しに来るところだった。返す前に味見をした。
「オルタンス様、しっかりしてください」
「……いやよ」
膝の上で、頭がわずかに動いた。
「あなたに看取られるのはいや」
「誰も死なせません」
「そう」
少し笑った。目のほうは笑っていない。
オレンジの匂いがする。落ちた実が、どこかで潰れている。
「ねえ。わたし、謝らないわよ」
「はい」
「缶を取ったのは、わたしが決めたこと。言われてない部分もあるの。ちょっとだけ、あなたが困ればいいと思ってた」
「知っています。顔に出ていました」
それきり、彼女は黙った。まぶたが落ちて、呼吸だけが残る。
私はその頭を膝に載せたまま、しばらく並木にいた。
風もないのに、オレンジの実がひとつ落ちる。硝子の天井を透かした日が、蜂蜜色の髪を明るくしていた。昨日と同じ光だ。昨日と同じ場所の、同じ光の下で、この人は缶を抱えて私を待っていた。
膝が痺れてきても動かせなかった。
役人が来た。
今度は速かった。速すぎる、と思った。私は呼んでいない。呼んでいないのに、彼らは迷わずここへ来た。
「なぜ、ここがおわかりに」
「巡回でございます」
「お呼びしておりません」
「巡回でございます」
三度目は聞かなかった。同じ答えしか返ってこない相手に、同じ問いを重ねるのは時間の無駄だ。
オルタンス様が担架に載せられる。そのあとで、一人が地面の缶を拾い上げた。
「それ、証拠です。中身に何か入っています。第四条です」
役人が蓋を開けて、中を覗いた。指で少しつまんで、匂いを嗅ぐ真似をする。
真似だ。嗅いでいない。鼻まで持っていっていない。
つまんだ指を、そのまま上着の裾で拭った。中身が何であるかを確かめる気が、はじめからない手つきだった。
「毒物の使用は、確認されませんでした」
「確認していないでしょう」
「確認いたしました」
役人の顔は、書類を読み上げるときと同じ高さで止まっている。
同じ言葉が同じ調子で返ってくる。壁に向かって喋るほうが、まだ手ごたえがありそうだ。
缶が布に包まれて、鞄の中へ消えていく。
「返してください」
「回収物でございます」
「私のものです。持ち込み3点のうちの1点です」
「ご本人の管理下にはございませんでした」
言い返せなかった。
管理下になかったのは事実だ。盗まれたからだと言ったところで、役人は盗まれた側の落ち度として書き取るだけだと思う。
役人が去ると、並木にはまた誰もいなくなった。
落ちた実がそのままになっている。踏まれた葉もこぼれた紅茶の黒い染みも誰も片づけない。ここで何かが起きたことは、じきに土が吸って消してしまう。
24本。残りは8人。並木から竿は見えないのに、上がったことだけはわかってしまう。
役人が背を向けた。
その袖口から、綴じた紙の束がのぞいている。表紙に細い字で何か書いてあった。
回収簿。
日付の欄と、品名の欄と署名の欄。
私は目を細めて、いちばん上の行だけを見た。
読めたのは日付だけだ。
それでいい。日付だけでいい。
頭の中で繰り返す。買い物の覚え書きみたいに、寝る前に唱える祈りみたいに。何度も何度も。
帰りは遠回りをした。噴水を回って、生垣を抜けて、わざわざ長いほうの道を選ぶ。3人の顔を見るまでの時間を、少しでも延ばしたかった。
小屋へ戻ったときには、もう夕方になっていた。
3人が扉の前に立っている。誰も座っていない。ずっとその格好で待っていたらしい。
「オルタンス様は」
「運ばれました」
「生きて?」
「息はしていました」
ソフィ様が長い息を吐いた。マルグリット様が両手で顔を覆う。リュシー様は私の手が空なのを見て、それだけで全部わかったらしかった。
「缶は」
「典礼省に持っていかれました。証拠として。証拠ではないと言われましたが」
言いながら、自分の声が平らなのに気づく。怒っているはずなのに平らだった。
この庭には旗が上がる。誰かが倒れれば、必ず上がる。
でも倒した側の旗は、どこにも上がらない。




