第13話 1.1倍が、3.5倍になる朝
朝いちばんに、私は頭の中で日付を唱える。
回収簿のいちばん上に書いてあった日付だ。役人の袖からのぞいた、たった一行。意味はまだわからない。わからないものを覚えておくのは、荷物を持って歩くのに似ている。重い。それでも置いていくわけにはいかない。
唱え終わってから、空の水差しを抱えて腰を上げた。ソフィ様も立ち上がる。
「ついてまいります」
「井戸ですけど。水を汲むだけです」
「お約束いたしましたので」
あの日から、私が外へ出るたびにこの人は剣を掴む。掴んで、行き先も聞かずについてくる。
「重いですよ、水差し」
「持ちますわ。剣は慣れております」
「両方持ったら、戦えないのでは」
「……その場合は、あなたが逃げてくださいまし」
私が逃げてもたぶん10歩で捕まる。それを言うのはやめておいた。
生垣の奥の井戸は、迷路のいちばん深いところにある。
奥へ入るほど、音が減っていく。入口のあたりでは外の物音がまだ届く。硝子に当たる何かの音。遠い足音。それが一つずつ削られて、最後に残るのは自分の呼吸と、砂利の湿った感触だけになる。
ソフィ様は私の半歩前を歩いた。曲がり角のたびに先に顔を出して、それから手で合図を送ってくる。剣を持たない人間の歩き方ではない。
葉の壁が二重になっていて、光がほとんど落ちてこない。空気が冷えている。地面の砂利は湿ったままで、踏むと音より先に感触が来る。
井戸は古い。石を積んだ縁が半分崩れて、木の蓋がずれたままだ。あの日、令嬢が上半身をかけて動かなくなっていた、あの縁。
釣瓶の縄を引くと、水の跳ねる音が下から返ってくる。深い。
縄は重かった。二人がかりで引き上げて、桶が石の縁に当たる音が思ったより大きく響いた。
水面に自分の顔が映る。髪に藁がついている。頬に土がついている。学園の廊下ですれ違っても、私はこの顔を令嬢だと思わない。
「よくこんなところをご存じでしたわね」
「マルグリット様が。実家の庭で、井戸の水と池の水の違いがわかるようになったそうです」
「どういう幼少期ですの」
「聞かないでおきました」
汲み上げた水は噴水のものより澄んでいた。手を浸すと冷たい。指の火傷の跡が冷たさでかえって疼く。
「あら。おそろいですのね」
声がした。
石の縁に腰かけて、ミレイユ様が帳簿を膝に載せている。いつからいたのか、まったくわからなかった。
「ミレイユ様」
「ごきげんよう。お水? わたくしにも一杯くださる? 今日は暑いですもの」
彼女が手を出したので、私は水差しから鉢に注いで渡した。ミレイユ様は一口飲んで、それから、少し驚いた顔をした。
「おいしい」
「井戸の水です」
「あなたのお茶より、よほど」
「缶を取られましたので」
「存じておりますわ」
この人の「存じておりますわ」はもう何度目だろう。
そのとき、生垣の切れ目から人が出てきた。
背の高い令嬢だ。ドレスの色は元は薄青だったと思う。いまは泥と草の汁で、何色とも言えなくなっている。目の下が黒い。
「モロー様。お待ちしておりましたわ」
ミレイユ様が立ち上がる。帳簿は開いたままだ。
「……本当に、いただけるのね」
「もちろんですわ。イザベル・モロー様。おひとりぶんの配当、たしかにお約束いたします」
私が口を開くより先に、ミレイユ様が言った。
「門はあちらです。役人がお待ちですわ」
「ありがとう。あなた、いい人ね」
その一言で足が動いた。
「モロー様」
「なあに」
言え。前は言えなかった。今度は言え。
「棄権すると、家名を返上することになります」
イザベル様が首を傾げた。
傾げたまま、しばらく戻さない。首の後ろに、汗で貼りついた髪がある。
「そう」
「ご存じでしたか」
「いいえ。初めて聞きましたわ」
次に言うことを組み立てようとした。組み立てているあいだに、彼女はもう笑っている。困った人を見るときの、あの笑い方で。
「でも、決めましたの。いま聞いても、変わりませんわ」
「まだ間に合います」
「それで、どうなりますの」
答えられなかった。
間に合った先に何があるのか、私はまだ持っていない。
「わたくし、3日眠っておりませんの。目を閉じると足音が聞こえますのよ。ここで倒れるのと、家がなくなるのと、どちらがましかなんて、もう考えられませんわ」
彼女は歩き出して、途中で一度だけ振り返った。
「あなたのところ、お茶が出るんですってね」
「……出ます。まずいですけど」
「行っておけばよかったわ」
薄青だったドレスが、葉の壁の切れ目に吸い込まれていく。
その背中はまっすぐだった。背筋を伸ばして、歩幅を揃えて、どこかの舞踏会へ入っていくみたいに歩いている。眠れていない人の歩き方ではない。
最後まで淑女でいることが、この人に残った最後のものだったのかもしれない。
しばらくして、竿の上に25本目の白が増えた。残りは7人。
ソフィ様が井戸の縁を蹴った。石がひとつ、水の中へ落ちる。
「あなた、止めようとなさいましたわね」
「言いました」
蹴った爪先が、石の粉で白くなっている。
剣ではなく、石を蹴る。
「では、言った意味はどこにございましたの」
「わかりません」
わからない。けれど、言わなかったときのほうがあとで重かった。それだけは知っている。
「ところで」
ミレイユ様が帳簿をこちらへ向けた。
「面白いものをお見せしましょうか」
「いやな予感がします」
「面白くありませんわ」
開かれた頁に数字が並んでいる。名前と、日付と倍率。字が細かくて、私の知らない記号が混ざっている。
紙は上等だった。この庭に持ち込まれたもののうち、いちばん状態がいい。誰も茶を飲まない茶会で、帳簿だけが汚れずに残っている。
「アデライド様の単勝。開会の日は1.1倍でした」
その数字なら覚えている。屋敷の庭で、ハンナが薔薇のほうを見ながら言った数字だ。
「今朝、3.5倍」
数字が耳の中で一度すべった。1.1と3.5のあいだに何があったのかを、私はまだ知らない。
「数日で3倍以上動きましたの。こんな動き方、わたくし見たことがございません」
数字の意味を考える。倍率が上がるということは、勝つと思われていないということだ。あの人が。剣を抜かずに人を落とすあの人が。
「誰かが、負けるほうに張ったんですか」
「大金で。しかも、一人ではございませんわ。同じ日に、似た額で、別々のお名前で。……手が同じですのよ。書き癖まで」
抱えた水差しの中で、汲んだばかりの水が波を打っていた。持ち手が震えているからだ。
二人がかりで引き上げたぶんだ。こぼしたくない。こぼれる。
「そんなことをして、何になるんです」
「本命が負ければ、大穴が跳ねます。跳ねたぶんは、賭けを開いた側のものに」
「胴元は、あなたでしょう」
「わたくしは小さいほうの胴元ですわ」
小さいほう。
その言い方を、私はしばらく飲み込めなかった。小さいほうがあるということは、大きいほうがあるということだ。
「ミレイユ様。大きいほうは、どなたですか」
「存じませんわ」
「今度は本当に?」
「今度は本当に」
彼女が帳簿を閉じた。いつも開いたまま小脇に挟んでいる人が、両手で表紙を合わせている。
閉じたそれを小脇に挟んで、井戸の縁から降りる。ドレスにはやはり土ひとつついていない。この庭で、この子だけが別の場所を歩いている。
「ひとつだけ、申し上げられますわ」
帳簿を挟んだ腕に、力が入っている。
「本命が負ける絵を、描いてる人がいますの」
井戸の底で水が鳴る。
深いところで鳴った音は、上まで来るあいだに形を変える。もとが何の音だったのか、耳に届くころにはもうわからない。
絵を描いている人がいる。描かれている本人はまだ何も知らない。
帰り道、ソフィ様は何も聞かなかった。聞かないでいてくれる人が隣にいると、水差しが少しだけ軽くなる。
私は水差しを抱え直した。重い。それでも持って帰らなければならないものが今日はもうひとつ増えている。
あの人に、言いに行かなければならない。
剣を抜かずに人を落とす人に、あなたは負けることになっていますと、これから言いに行くのだ。




