第14話 信じてくださらなくて結構ですけれど
小屋を出るとき、リュシー様が「私も」と言いかけて、口を閉じた。腕の包帯はもう取れているのに、この子には自分の腕を庇う癖が残っている。
「留守番をお願いします。マルグリット様と、火を見ていてください」
「私、入れられませんけど」
「では、消さないでいてください」
ソフィ様は何も言わずに剣を掴んだ。もう、行くか行かないかを聞かなくなった。
黒いドレスを探すのは、思ったより簡単だった。
人の気配のない場所を選んで歩けばいい。この庭で、誰も近寄らない場所には、たいていあの人がいる。
中央広場の噴水のそば。倒れた鉢と、根の乾いたレモンの木の向こう。石の縁に腰かけて、あの人は剣を膝に載せ、布で刃を拭いていた。
趣味の時間だった。
噴水の水はもう澄んでいない。落ちた葉と土で濁って、底が見えなくなっている。開会の日、ここには32人がいた。ドレスの色が全部違って、扇と日傘が光を弾いて、誰もがまだ「ごきげんよう」と言い合っていた。
いまは一人だ。
「アデライド様」
「なんだ」
顔を上げない。布が刃の上を往復する音だけがする。しゃ、しゃ、と規則正しい。
その手をよく見ると、指の付け根の皮が厚くなっていた。剣を握る場所だけが、別の生き物みたいに硬い。
私の手はまだ柔らかい。火傷の跡があるだけだ。
「お話があります」
「聞いている」
「典礼省が、あなたを負けさせようとしています」
「知っている」
手が止まらない。
布の往復は、速さも幅も変わらない。私の言葉は届いていない。
「うちが典礼省と揉めていると言ったはずだ。負けさせたい人間がいることくらい、来る前からわかっている」
「では、なぜ何もなさらないんです」
「する。勝つ」
「勝てなかったら」
「勝つと言っている」
噛み合わない。噛み合わないというより、この人は最初から同じ場所に立っていて、そこから動く気がない。
噴水の濁った面に、二人が並んで映っている。距離は3歩。近づいた覚えがない。
「賭けの倍率が動いています。あなたが負けるほうに、大金が入りました。同じ日に、別々の名前で、書き癖が同じ手で」
「それがどうした」
「盤面が仕組まれているということです。あなたが強いかどうかとは、別の話です」
「ならば、私には関わりがない」
「関係あります」
声が大きくなった。生垣の葉が揺れる。
布が止まった。
「お前に何がわかる」
初めて、声に温度が乗った。低いのは同じなのに、下から熱が上がってくる感じの声だ。
「私は昨年から毎日、剣を握ってきた。朝も昼も夜もだ。人と話す時間を全部それに使った。趣味を聞かれて剣の手入れとしか答えられない人間になった」
私は口を挟まなかった。挟む資格がない。
数えているのは日数ではない。捨てたもののほうだ。
「それを、盤面が、仕組みが、と言われて、はいそうですかと剣を置けと言うのか」
「そうは申し上げていません」
「同じことだ」
彼女が立ち上がる。私より背が高い。見下ろされると、それだけで喉が詰まる。
「私は誰にも守られずにここまで来た。守られたら、全部が嘘になる」
「守るつもりはありません」
「では、なぜ来た」
答えを探した。用意していた言葉は、どれも役に立ちそうになかった。
持ってきたのは数字と紙の話だ。要求されているのは、それではない。
「……知っている人間が、知らない人を放っておくのが、いやだったので」
「余計なお世話だ」
「はい。余計なお世話です」
「わかっているなら帰れ」
「わかっていても来ます。信じてくださらなくて結構ですけれど、また来ます」
しばらく、風のない空気だけがあいだにあった。硝子の天井から落ちる日が、彼女の銀の髪を白く光らせている。
鞘の先が砂利に小さな穴を掘っていた。立っているあいだじゅう、動かしていた。
「なら、描かせておけばいい」
アデライド様が剣を鞘へ納めた。
「私は勝つ。勝てば全部片づく」
「それで済むなら、誰も門をくぐっていません」
「くぐった人間のことは、私の仕事ではない」
議論にならなかった。
この人と私は同じ言葉を違う意味で使っている。強いというのも守るというのも辞書が別々にある。勝つ、という言葉すら違う。
彼女が背を向けた。
そのとき、私の横から人が出た。
「グレンヴィル様」
ソフィ様だった。
「なんだ」
「一手、お願いできますか」
袖を掴んだ。掴んだ手を静かに外される。乱暴ではなかった。乱暴でないぶん、止められなかった。
外された手を、私は胸の前で握り直した。掴み直せる強さがない。
「ソフィ様」
「わたくし、剣術は優ですのよ」
「知っています」
「優の相手と手合わせをしたことが、ございませんの」
彼女は笑った。口の端だけを持ち上げる、稽古場の礼みたいな笑い方だった。
「学園では、いつも下の方とばかりでしたわ。勝って、勝って、勝ち続けて、それでも自分が本当はどのあたりにいるのかを、確かめられずにおりましたの」
「知らなくていいです」
「知りたいんですのよ」
アデライド様が振り返った。
ソフィ様を上から下まで見て、それから、鞘に手をかけもしない。
「やめておけ」
「なぜです」
「お前は、勝ちたいのではないだろう」
「……」
「確かめたいだけの人間は、確かめた瞬間に終わる」
「それでも、結構ですわ」
ソフィ様が剣を抜いた。
構えは綺麗だった。学園の稽古場でなら、たぶん誰よりも綺麗だったと思う。踵の角度も肘の高さも教本のとおりだ。
アデライド様は動かない。
それから、踏み出した。
一歩。
ソフィ様の構えが崩れる。剣先が下がって、肩が落ちて、膝が地面についた。
刃は抜かれていない。触れてもいない。
私は駆け寄った。ソフィ様は座り込んだまま、自分の手のひらを見ている。
「……動きませんの」
私は膝をついた。土が湿っている。
噴水の水が縁からわずかに溢れていた。もう誰も汲まない水だ。
「足が動きませんのよ。頭は動いておりますのに」
手のひらが上を向いたままだ。そこに何かが載っていたはずだという形で。
「わたくし、優でしたのに」
その声がこの庭で聞いたどの声よりも小さかった。
剣が手から落ちる。彼女はそれを拾わなかった。拾おうとして、指が届かないのではない。届く距離にあるのに手が出ない。
「セシリア様。あの方、一歩しか動いておりませんわ」
私は答えを持っていない。持っていないことが、向こうにも見えている。
「わたくし、何と戦っていたのかしら」
担架の足音が近づいてくる。
私は彼女の手を握った。冷たくはない。震えてもいない。ただ、力がまるで入っていなかった。
役人が来て、ソフィ様を担架に載せた。
彼女は抵抗しなかった。抵抗するどころか、自分から乗った。座って、膝を閉じ、背をまっすぐにして。
「セシリア様。剣を、置いていきますわ」
膝の上で両手が重ねられている。担架の縁を掴んでいない。
「わたくしにはもう要りませんもの。どなたか、薪でも割るのにお使いくださいまし」
「薪は割りません」
「では、枝を落としてくださいまし。高いところの」
「よろしいんですか。持ち込みは3点までですけれど」
「あなた、それを今おっしゃいますの」
「譲り受けについては、規約に一行も書かれておりません」
「……最後まで、そういう方ですのね」
声が出なかった。頷くのが精いっぱいで、頷いたのが見えたかどうかも自信がない。
旗が上がる。26本目。残りは6人。
担架が生垣の向こうへ消えたあと、私は地面に残った剣を見下ろしていた。
持ち上げてみる。両手でも重い。切っ先が土を擦って、線を一本引いた。
この重さを、あの人は片手で振っていた。片手で振れる人が、一歩の差で膝をついた。
私は剣を抱えた。枝を落とすのに使う。そう頼まれたから。
アデライド様はもう背を向けていた。
剣は最後まで鞘に入ったままだ。振らずに人を落としたことを、何とも思っていない。
この人は何も間違っていない。強いことも警告を聞かないことも、たぶん間違ってはいない。手加減をしないことも。
間違っていないまま、この人は負けることになっている。




