↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
どうぞ潰し合ってくださいまし。わたくしはお茶を淹れております 〜負けても死にません。ただ、家がなくなるかもしれません〜  作者: 夜凪 蒼


この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

PR
15/21

第14話 信じてくださらなくて結構ですけれど

小屋を出るとき、リュシー様が「私も」と言いかけて、口を閉じた。腕の包帯はもう取れているのに、この子には自分の腕を庇う癖が残っている。


「留守番をお願いします。マルグリット様と、火を見ていてください」


「私、入れられませんけど」


「では、消さないでいてください」


 ソフィ様は何も言わずに剣を掴んだ。もう、行くか行かないかを聞かなくなった。


 黒いドレスを探すのは、思ったより簡単だった。


 人の気配のない場所を選んで歩けばいい。この庭で、誰も近寄らない場所には、たいていあの人がいる。


 中央広場の噴水のそば。倒れた鉢と、根の乾いたレモンの木の向こう。石の縁に腰かけて、あの人は剣を膝に載せ、布で刃を拭いていた。


 趣味の時間だった。


 噴水の水はもう澄んでいない。落ちた葉と土で濁って、底が見えなくなっている。開会の日、ここには32人がいた。ドレスの色が全部違って、扇と日傘が光を弾いて、誰もがまだ「ごきげんよう」と言い合っていた。


 いまは一人だ。


「アデライド様」


「なんだ」


 顔を上げない。布が刃の上を往復する音だけがする。しゃ、しゃ、と規則正しい。


 その手をよく見ると、指の付け根の皮が厚くなっていた。剣を握る場所だけが、別の生き物みたいに硬い。


 私の手はまだ柔らかい。火傷の跡があるだけだ。


「お話があります」


「聞いている」


「典礼省が、あなたを負けさせようとしています」


「知っている」


 手が止まらない。


 布の往復は、速さも幅も変わらない。私の言葉は届いていない。


「うちが典礼省と揉めていると言ったはずだ。負けさせたい人間がいることくらい、来る前からわかっている」


「では、なぜ何もなさらないんです」


「する。勝つ」


「勝てなかったら」


「勝つと言っている」


 噛み合わない。噛み合わないというより、この人は最初から同じ場所に立っていて、そこから動く気がない。


 噴水の濁った面に、二人が並んで映っている。距離は3歩。近づいた覚えがない。


「賭けの倍率が動いています。あなたが負けるほうに、大金が入りました。同じ日に、別々の名前で、書き癖が同じ手で」


「それがどうした」


「盤面が仕組まれているということです。あなたが強いかどうかとは、別の話です」


「ならば、私には関わりがない」


「関係あります」


 声が大きくなった。生垣の葉が揺れる。


 布が止まった。


「お前に何がわかる」


 初めて、声に温度が乗った。低いのは同じなのに、下から熱が上がってくる感じの声だ。


「私は昨年から毎日、剣を握ってきた。朝も昼も夜もだ。人と話す時間を全部それに使った。趣味を聞かれて剣の手入れとしか答えられない人間になった」


 私は口を挟まなかった。挟む資格がない。


 数えているのは日数ではない。捨てたもののほうだ。


「それを、盤面が、仕組みが、と言われて、はいそうですかと剣を置けと言うのか」


「そうは申し上げていません」


「同じことだ」


 彼女が立ち上がる。私より背が高い。見下ろされると、それだけで喉が詰まる。


「私は誰にも守られずにここまで来た。守られたら、全部が嘘になる」


「守るつもりはありません」


「では、なぜ来た」


 答えを探した。用意していた言葉は、どれも役に立ちそうになかった。


 持ってきたのは数字と紙の話だ。要求されているのは、それではない。


「……知っている人間が、知らない人を放っておくのが、いやだったので」


「余計なお世話だ」


「はい。余計なお世話です」


「わかっているなら帰れ」


「わかっていても来ます。信じてくださらなくて結構ですけれど、また来ます」


 しばらく、風のない空気だけがあいだにあった。硝子の天井から落ちる日が、彼女の銀の髪を白く光らせている。


 鞘の先が砂利に小さな穴を掘っていた。立っているあいだじゅう、動かしていた。


「なら、描かせておけばいい」


 アデライド様が剣を鞘へ納めた。


「私は勝つ。勝てば全部片づく」


「それで済むなら、誰も門をくぐっていません」


「くぐった人間のことは、私の仕事ではない」


 議論にならなかった。


 この人と私は同じ言葉を違う意味で使っている。強いというのも守るというのも辞書が別々にある。勝つ、という言葉すら違う。


 彼女が背を向けた。


 そのとき、私の横から人が出た。


「グレンヴィル様」


 ソフィ様だった。


「なんだ」


「一手、お願いできますか」


 袖を掴んだ。掴んだ手を静かに外される。乱暴ではなかった。乱暴でないぶん、止められなかった。


 外された手を、私は胸の前で握り直した。掴み直せる強さがない。


「ソフィ様」


「わたくし、剣術は優ですのよ」


「知っています」


「優の相手と手合わせをしたことが、ございませんの」


 彼女は笑った。口の端だけを持ち上げる、稽古場の礼みたいな笑い方だった。


「学園では、いつも下の方とばかりでしたわ。勝って、勝って、勝ち続けて、それでも自分が本当はどのあたりにいるのかを、確かめられずにおりましたの」


「知らなくていいです」


「知りたいんですのよ」


 アデライド様が振り返った。


 ソフィ様を上から下まで見て、それから、鞘に手をかけもしない。


「やめておけ」


「なぜです」


「お前は、勝ちたいのではないだろう」


「……」


「確かめたいだけの人間は、確かめた瞬間に終わる」


「それでも、結構ですわ」


 ソフィ様が剣を抜いた。


 構えは綺麗だった。学園の稽古場でなら、たぶん誰よりも綺麗だったと思う。踵の角度も肘の高さも教本のとおりだ。


 アデライド様は動かない。


 それから、踏み出した。


 一歩。


 ソフィ様の構えが崩れる。剣先が下がって、肩が落ちて、膝が地面についた。


 刃は抜かれていない。触れてもいない。


 私は駆け寄った。ソフィ様は座り込んだまま、自分の手のひらを見ている。


「……動きませんの」


 私は膝をついた。土が湿っている。


 噴水の水が縁からわずかに溢れていた。もう誰も汲まない水だ。


「足が動きませんのよ。頭は動いておりますのに」


 手のひらが上を向いたままだ。そこに何かが載っていたはずだという形で。


「わたくし、優でしたのに」


 その声がこの庭で聞いたどの声よりも小さかった。


 剣が手から落ちる。彼女はそれを拾わなかった。拾おうとして、指が届かないのではない。届く距離にあるのに手が出ない。


「セシリア様。あの方、一歩しか動いておりませんわ」


 私は答えを持っていない。持っていないことが、向こうにも見えている。


「わたくし、何と戦っていたのかしら」


 担架の足音が近づいてくる。


 私は彼女の手を握った。冷たくはない。震えてもいない。ただ、力がまるで入っていなかった。


 役人が来て、ソフィ様を担架に載せた。


 彼女は抵抗しなかった。抵抗するどころか、自分から乗った。座って、膝を閉じ、背をまっすぐにして。


「セシリア様。剣を、置いていきますわ」


 膝の上で両手が重ねられている。担架の縁を掴んでいない。


「わたくしにはもう要りませんもの。どなたか、薪でも割るのにお使いくださいまし」


「薪は割りません」


「では、枝を落としてくださいまし。高いところの」


「よろしいんですか。持ち込みは3点までですけれど」


「あなた、それを今おっしゃいますの」


「譲り受けについては、規約に一行も書かれておりません」


「……最後まで、そういう方ですのね」


 声が出なかった。頷くのが精いっぱいで、頷いたのが見えたかどうかも自信がない。


 旗が上がる。26本目。残りは6人。


 担架が生垣の向こうへ消えたあと、私は地面に残った剣を見下ろしていた。


 持ち上げてみる。両手でも重い。切っ先が土を擦って、線を一本引いた。


 この重さを、あの人は片手で振っていた。片手で振れる人が、一歩の差で膝をついた。


 私は剣を抱えた。枝を落とすのに使う。そう頼まれたから。


 アデライド様はもう背を向けていた。


 剣は最後まで鞘に入ったままだ。振らずに人を落としたことを、何とも思っていない。


 この人は何も間違っていない。強いことも警告を聞かないことも、たぶん間違ってはいない。手加減をしないことも。


 間違っていないまま、この人は負けることになっている。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。