第15話 臆病者の名前が刷り物になる
ソフィ様の剣は小屋の壁に立てかけてある。
昨日、私はそれを抱えて帰ってきた。帰って、置いて、それきり触っていない。枝を落とすのに使うと言ったのに、まだ一度も持ち上げていなかった。
持ち上げると、あの人が膝をついた場所を思い出す。
リュシー様は朝から鉢を洗っている。洗う必要のない鉢を、二度、三度と洗っている。手を動かしていないと落ち着かないらしい。
「セシリア様。剣、お使いにならないんですか」
「まだ」
「枝を落とすって、お約束なさいましたよね」
「……今日ではありません」
リュシー様は手を止めなかった。止めないまま言う。
「ソフィ様、また来ますよね」
「来ません」
鉢を洗う音が、少しだけ速くなった。
わかっていて聞いたのだと思う。わかっていても誰かに言ってほしいことがある。
マルグリット様は外を見ていた。
「今日、硝子のほうへいらっしゃいますの?」
「行きます」
「なぜおわかりに、と聞かないんですのね」
「あなた、もう靴の先が扉を向いておりますもの」
「そちらも、同じ向きですけれど」
二人で出た。リュシー様は鉢を抱えたまま、留守番を引き受けてくれた。
硝子壁ぎわは宮の南側にある。この庭でいちばん日の当たる場所だ。
近づく前から、様子がおかしいのはわかった。
人が多い。天蓋席が埋まっている。開会の日より多いかもしれない。全員が手に紙を持っていて、それを振ったり、隣の人と見比べたりしている。
天蓋席の顔ぶれも変わっていた。
開会の日にあそこにいたのは、誰かの父親と誰かの婚約者、それに札を握った紳士たちだった。いまは知らない顔ばかりだ。家族の顔ではない。券を持っている顔をしている。
新しく来た人たちは双眼鏡を持っていない。代わりに紙を持っている。紙のほうがたぶん安いのだろう。
私が硝子に寄ると、ざわめきがこちらへ寄ってきた。
声は聞こえない。それでも口の動きは見える。何人かがこちらを指さした。紙を持ち上げて、硝子に押しつける人がいる。
読めた。
『第37回・王立親睦茶会 本日の見どころ』
いちばん上に、大きな字でそう刷ってある。
紙は粗い。刷りたてで、指につきそうなほどインクが濃い。その下に、細かい字が並んでいた。
『園丁小屋の茶会ごっこ。戦わない臆病者、ヴァルモントのセシリア嬢。単勝55倍』
名前が書いてある。
伏せ字でも頭文字でもない。ヴァルモントのセシリア。私の名前が印刷されて、笑いながら振られている。
その下にもう一行あった。
『ヴァルモント伯爵家は御用商人への支払いが滞っている由。娘御の不戦も家風か』
父の顔が浮かんだ。
インクの匂いのする書斎で、痩せた領の数字を睨んでいる顔。羽根ペンを置きもせずに「断れる」と言った顔。それから、勝たなくていい、と言ったときの顔。
私が帰る場所の話を、会ったこともない人たちが紙にして笑っている。
膝の裏が冷たくなった。この庭は暑いのに、体の内側だけが冷えていく。
自分の名前を、私はこれまで一度も嫌いだと思ったことがない。セシリア・ヴァルモント。父がつけた名前で、母が呼ぶはずだった名前だ。
それがいま、笑いの符牒になっている。
いつもの場所を探した。
いた。日陰にもならない、いちばん端。
ハンナは紙を持っていなかった。持っていない手をゆっくり横に振る。
首も横に振った。
見ないでください、という意味だ。
私はもう見てしまった。見てしまったと伝える方法を私は持っていない。
ハンナが懐へ手を入れた。紙を出しかけて――やめた。
やめて、その手をそのまま硝子に当てる。
私も同じ高さに手を当てた。厚い硝子を挟んで掌が向かい合う。温度は伝わらない。日に焼けた硝子がぬるいだけだ。
それでもしばらくそうしていた。
隣で、マルグリット様が息を吸う音がした。
彼女は刷り物を見ていない。ずっと外の、決まった一角を見ている。
その席に人がいた。
白髪まじりの男が一人。座って、こちらを見ている。膝の上に紙はない。葡萄酒も持っていない。ただ座って、真正面を見ていた。
「……お父様」
聞いたことのない高さの声だった。
「今日、いらしたんですか」
「16年生きてきて、初めてですわ」
彼女の指が硝子に触れる。触れて、少し押した。押しても向こうには何も伝わらないのに押している。
「わたくし、ずっと」
言葉の途中で、息が続かなくなる。
「見てさえいただければ、それでいいと思っておりましたの」
「毎日、外をご覧になっていましたよね」
「ええ。誰もおりませんでしたけれど、いないと確かめないと一日が始まりませんもの」
紳士が懐から紙を出した。
マルグリット様の顔が明るくなる。
刷り物ではない。白い紙だ。彼はそこへ何かを書きつけて、硝子に押しつけた。
太い字が2つ。
『行け』
マルグリット様の顔から、明るさが下から順に剥がれていった。
硝子に当てていた手が、そのまま滑り落ちる。手のかたちの曇りだけが残った。
「……見に来たんじゃ、ありませんのね」
「マルグリット様」
「呼びに来たんですわ。あの人、わたくしを呼びに来たのよ」
「行かないでください」
「行きますわ」
「あの方は、あなたを」
「見てくださいましたもの。16年で初めて」
私は袖を掴んだ。掴んだけれど、掴んだだけだった。この庭で、私が誰かを引き止められたことは一度もない。
「セシリア様」
足は止まらなかった。振り返ったのは首から上だ。
「まずいお茶、ごちそうさま」
彼女は歩いていった。背筋を伸ばして、歩幅を揃えて、まっすぐに。
その歩き方を私は昨日も見た。井戸のそばで見た。この庭の令嬢はみんな、最後だけは同じ歩き方をする。
行った先に誰がいたのかは、私からは見えなかった。
音もほとんどしなかった。
27本になった。残りは5人。
振り返ると、天蓋席の男はもう座っていた。隣の人と何か話して、紙を見比べて、それから笑った。
園丁小屋の扉を押すと、リュシー様が一人で座っていた。
鉢が全部洗い上がって、綺麗に積まれている。私が何も言わないうちに、この子は積んだ鉢の数を目で数えた。
「……お一人ですか」
「マルグリット様が」
言い終わらないうちに、この子の顔が変わる。それきり、何も聞かなかった。
その夜、火は入れなかった。
葉を摘みに行く気にならなかったし、水も汲みに行かなかった。二人とも黙って、暗くなっていく小屋の中に座っている。
先に口を開いたのはリュシー様だった。
「セシリア様」
暗くて顔が見えない。声の向きで、こちらを見ているのがわかる。
「このままだと、全員負けます」
返事をしなかった。
「誰かが誰かを倒さないと、終わりません。終わらないと、みんな門をくぐります。門をくぐったら、家がなくなります」
闇が濃くなって、この子の輪郭はもう溶けている。それでも言葉は一つずつ角が立っていた。
「私、数えたんです」
「何をです」
「小屋にいらした方。エロディ様、オルタンス様、ソフィ様、マルグリット様」
名前が四つ並んだところで、私は暗がりの床を見た。座っていた場所が四つ空いている。鉢の山の横。扉のそば。ランプの前。藁の端。
「4人とも、いなくなりました」
数えるのは私の仕事だったのに。
「次は、私かセシリア様です」
闇の中で、この子の目だけが光って見える。泣いていない。泣いていないほうがこわい。
「じゃあ、どうするんですか」
答えがなかった。
持っているものを数えてみる。ランプ。茶器。葉っぱ。壁に立てかけたままの、振れもしない剣。
家名を守るために私はここへ来た。
来たせいで、家名は刷り物になった。




