第16話 守るってどういう意味でしたっけ
眠れなかった。
小屋の天井の板には節が3つある。暗いうちは見えない。見えないのに、どこにあるかを知っているから、目で追ってしまう。
隣でリュシー様も眠っていなかった。息の間隔でわかる。眠っている人の息は、もっと深くて、もっと遅い。
どちらも起きていて、どちらも黙っていた。どちらかが口を開いたら、昨日の続きが始まる。始まったら、たぶん終わりまで行く。
夜が白んでいく速さを、私はもう知っている。硝子の天井は明るくなるときだけ音を立てない。
答えを出せないまま、朝が来た。
リュシー様は私より早く起きていた。
床に葉が積んである。もう摘んできたらしい。ランプの前に座って、火打ち石を握って、何度も打っていた。手つきはぎこちない。火花は散るのに芯まで届かない。
「私が」
「いいです」
声が硬かった。
この子が私に硬い声を出すのを、私はまだ聞いたことがない。
何度目かでやっと灯がついた。リュシー様は火打ち石を置いて、それから自分の手を見ている。
「できました」
「できましたね」
「できるようになるまでに、ずいぶんかかりました」
火打ち石は重い。私も最初は苦労した。石と石の当てる角度、力の加減、藁のほぐし方。誰にも教わらなかったから、全部自分で覚えた。
この子は私がやるのを見て覚えたらしい。見て覚えるというのは、見ていたということだ。私が気づかないところで、この子はずっと手元を見ていた。
湯が沸くまで6分。
話しかけなかった。向こうも話しかけてこない。
沸いた。葉を入れる。色が出るまで待つ。カップは2つあるので、今日は順番を待つ必要がない。人が減ると、器は足りるようになる。
リュシー様は受け取って、一口飲んでそれから言った。
「まずいです」
葉の色が今日は濃く出すぎた。
湯を足す余裕がなかった。水はもう汲みに行っていない。
「私が摘んだのに、まずいです」
「火加減です」
「セシリア様。昨日の答え、出ましたか」
出ていない。一晩じゅう考えて、朝までに出たのは、答えではなく言い訳の候補ばかりだった。
どれも、この子に言えば嘘になるものばかりだ。
「出ていません」
「そうですか」
彼女はもう一口飲んだ。
顔をしかめない。今日は一度も。
「じゃあ、私が降ります」
カップを持つ手が止まる。
「……何を」
「棄権します。東の門へ行きます」
「だめです」
「なぜですか」
「家が」
「うち、男爵家です」
この子は落ち着いていた。落ち着いているのがいちばん怖い。
昨日の夜に決めたのだ。決めてから朝まで黙っていた。黙ったまま葉を摘みに行って、火を入れる練習をして、それから言った。順番が整いすぎている。
「姉が二人います。二人とも優秀です。私がいなくても、うちは回ります。むしろ、口が一つ減ります」
「そんな言い方はやめてください」
「本当のことです」
「家名が、なくなるんですよ」
「知っています」
「言葉の意味、おわかりですか」
「うちの家名は、畑の水路より軽いんです」
「……水路」
畑の話をしている。家名の重さを、畑の話で量っている。
私は自分の領の水路を見たことがない。数字でなら知っている。
「水路がないと、麦が枯れます。家名がなくても、麦は生えます」
言い返す言葉が浮かばなかった。この子は自分の家のことを私よりずっと正確に知っている。
湯気が二人のあいだで立っている。葉っぱを煮た匂いは、もう嗅ぎ慣れてしまった。慣れてはいけないものに人は簡単に慣れる。
「あなたが降りても、終わりません」
「一人減ります」
「あなたが減っても、数はまだ残ります」
「4人が3人になって、3人が2人になります。誰かが最初にやらないと、誰も動きません」
「動かなくていいんです」
「止まったままでは、何も終わりません」
昨日、私が言えなかったことを、この子が代わりに全部言っている。
言われるたびに、こちらの言葉が一つずつ減っていく。
「セシリア様は、戦えません。私も戦えません」
私はどちらにも答えなかった。頷けば、この子の理屈が一つ進む。
「戦えない人間が二人いても、何も終わりません。だったら、戦えない人間にできることをするしかないでしょう」
「それが、降りることですか」
「そうです」
「違います」
「じゃあ、何ですか」
答えられなかった。
この子は私が答えられないと知っていて聞いている。知っていて、それでも聞いた。それはたぶん、最後の確認だったのだと思う。
リュシー様がカップを置いた。
飲み残しはない。全部飲んでから置いた。まずいと言ったものを、最後まで飲んでから。
立ち上がって、扉へ歩く。
「待ってください」
足は止まらない。扉の、閂の折れた跡に手がかかる。
「リュシー様」
「私、役に立ちたかったんです」
扉のところで、この子が振り返った。
「実家では、何もできませんでした。姉たちの後ろで、邪魔にならないようにしていただけです。ここへ来て、やっと必要とされました」
扉の枠に手をかけたまま、この子は中を見ていない。
「火が入れられるようになりました。葉っぱも摘めます。鉢も洗えます。全部ここで覚えました」
覚えたことを、出ていく前に全部数えている。
「だから、最後まで役に立ちたいんです」
彼女は歩いていった。
私は追いかけた。
この子は何も持っていかなかった。荷物も鉢も摘んできたばかりの葉も、全部そのままにして出ていく。持っていくものがないのではない。持っていっても意味がないともう決めている。
生垣の迷路を抜けた。走れないなりに必死に走る。膝が笑う。息が上がる。途中で一度転んで、それでも立ち上がった。
並木の下は落ちた実で足が滑る。
この道を、私は何度も歩いている。缶を取り返しに行ったときも、返してもらえずに帰ったときもこの道だった。あのときも走って、あのときも追いつけなかった。
今日は追いつける。この子は私の足でも追いつける速さで歩いている。
わざとかもしれない。
追いついたのは門が見えるところだった。
白い建物。机。インク壺。羽根ペン。座っている役人。あの日と同じ景色が、何ひとつ変わらずにそこにある。
「ご辞退でございますか」
役人の声が届いた。よく通る声だ。この人たちは遠くまで届く話し方を訓練されているらしい。
「お二人とも?」
リュシー様が口を開きかける。私はその腕を強く引いた。
「まだです」
「では、お決まりになりましたら」
急がない。急ぐ必要がない。この人たちはいつまででも待てる側に座っている。
私はこの子の腕を掴んだ。
「行かないでください」
リュシー様が止まる。
「離してください」
答える代わりに、指に力を入れた。
「セシリア様」
「あなたが降りたら、私は」
その先が出てこない。
私は何と言おうとしたのだろう。
私は困る。私が寂しい。私が一人になる。どれも本当で、どれも、この子を引き止める理由にはならない。
守る、という言葉を、私は一度も口にしていない。口にしていないのに、この子はそれを知っている。知っていて、いま、その中身を聞こうとしている。
机の上の書類の束が、あの日より厚くなっている。減った人数のぶんだけ、あれは厚くなった。
役人が顔を上げた。こちらを見ている。急いでいない。急ぐ必要がないからだ。あの机は逃げない。今日でなくても明日でも、私たちはあそこへ行くことになっている。
リュシー様が振り返った。
目が合う。この子の目は昨日と同じだった。
「セシリア様」
声が、今朝より低い。
「私を止めて、その先はどうするんですか」
「……」
「ここに残して、明日も葉っぱを煮て、明後日も煮て、それで、最後はどうなるんですか」
「わかりません」
「わからないのに、止めるんですか」
生垣が熱を吐きはじめている。葉の裏に溜まっていた夜の冷たさが、この時間に全部抜けてしまう。
もうすぐ昼だ。昼が来て、夕方が来て、夜が来る。今日もまた、6分かけて湯を沸かすことになる。誰が飲むのかはまだ決まっていない。
掴んだ手に力が入る。
この子の腕は細かった。細くて、ここへ来たときより少しだけ硬くなっている。鉢を運んで葉を摘んで、水を汲んで、そうやってついた硬さだ。
「あなた、責任取れるんですか」




