第29話 砂糖は、おいくつ
鐘が鳴った。
開会の日に聞いたのと同じ音だった。
同じ音なのに、まるで違って聞こえる。あのときはこれから始まる音だった。いまは終わる音だ。音のほうは何ひとつ変わっていない。変わったのは聞いている側だけ。
硝子宮の門が開いた。
東の門ではない。入ってきたほうの門だ。あの日、32人がくぐった門。
最初に走り込んできたのはリュシー様だった。
腕に布を巻いたまま、転びそうな勢いで生垣を回り込んでくる。私を見つけて、それから大声で泣いた。
この子はこの庭では一度も泣かなかった。刃を向けて泣いたあの日から、一度も。
「セシリア様」
返事より先に、腕が首に回ってきた。
力の入れ方を知らない抱きつき方だった。
「せっ、セシリア、さま」
「聞こえています」
言葉になっていない。なっていないぶん、よく伝わった。
ソフィ様が来た。剣を持っていない。持っていないほうが、かえって背筋が伸びて見える。
「ソフィ様」
「言わないでくださいまし」
「まだひとことも申し上げておりませんけれど」
「わたくし、一歩で膝をつきましたのよ。思い出すたびに剣が握れなくなりますわ」
「では、握らなくても」
「握りますわよ。悔しいので」
剣を持っていない手が、腰のあたりで柄を探していた。
マルグリット様が来た。父親は連れていない。連れてこなかったのか、来なかったのか、私は聞かなかった。聞かないでいてくれる人が隣にいるとありがたいことを、私はこの庭で教わっている。
エロディ様がいた。クロエ様もいた。名前を知らないまま見送った人たちの顔が、いくつもいくつも。
オルタンス様もいた。
少し離れたところに、こちらを見ないで立っている。目が合いそうになると視線を外す。あの人はきっと最後まで謝らない。謝らないまま、それでも来た。
「セシリア様」
目のふちがまだ赤い。泣きやんだばかりの顔で、それでも笑っている。
「私、家に帰れます」
布を巻いた腕が、報告のたびに少し持ち上がる。
「姉が、迎えに来ました。二人とも」
生垣の外に、背の高い娘が二人並んで立っていた。
どちらもこの子と同じ目の形をしている。三女は、あの二人の後ろで育った。
「よかった」
「すごく怒られました」
「でしょうね」
「でも、抱きしめられました」
この子は腕の布を押さえて、それから少しだけ笑った。
火の中から白磁を出そうとした腕だ。布の下の跡は、消えないままになる。
「私、役に立ちましたか」
「2回目です、その質問」
「何回でも聞きます」
「では、そのたびに答えます」
鐘楼の下に、小さな人影が立っていた。
「第37回・王立親睦茶会は、これをもって閉会いたしますわ」
王太后陛下の声は小さい。小さいのに、硝子の天井の下ではよく通る。
「それから、ひとつ」
しわだらけの手が、書類の束を持ち上げた。
「家名返上に関する同意書は、王家の裁可を経ておりません。典礼省の私文書ですの」
誰かが息を呑む音がした。
私文書。あの机。あのインク壺。あの読み上げる声。ぜんぶそれだった。
「運用ごと、無効といたします。この回のぶんも、過去10回ぶんも」
しわだらけの手が束を裏返した。
「あわせて、典礼省が代わりに押さえた領地、水利、代官職。すべて再審査に付しますわ」
声にならない音が、庭じゅうから上がった。
悲鳴でも歓声でもない。大勢が同時に息を吸うと、こういう音になるのだと知った。
拍手をしているのは、この日に家を取り戻した人たちだった。
感動して手を叩いているのではない。取り返したのだ。畑と、屋根と家族の名字を。だからその音には、実の入った重さがある。
「セシリア・ヴァルモント様」
審判官が私を呼んだ。
「その名は、もう」
「無効といたしましたのは、返上の運用そのものですの」
王太后陛下が言った。
「あなたの返上も、7つのお家と同じ扱いですわ。初めからなかったことになります」
「では、閉会は」
審判官の声が裏返った。
「宣言済みでございます」
答えたのはその審判官の隣にいた若いほうだった。書類挟みを開いて、自分の書いた行を読み上げている。
「閉会の宣言を取り消す定めは、規約にございません。追補にも、ございません」
私は座り込んだまま、笑ってしまった。
典礼省の道具で、典礼省が負けている。
「グレンヴィルのお嬢さん」
「……はい」
「お姉様のお名前、名簿へ戻りますわ」
アデライド様は何も言わなかった。
何も言わずに深く頭を下げた。剣を持たない手でドレスの裾をつまんで、社交の場でするいちばん正式な礼を。その礼をこの人がするとは。
硝子の外で、栗色の巻き毛が動いていた。
天蓋席をひとつずつ回っている。紳士たちに紙を配って、丁寧にお辞儀をして、次の席へ移る。
あとで一枚見せてもらった。『配当のご案内』と表題があって、中身は一行だけだった。
――該当者なし。
優勝者が勝利によって決まらなかった場合の配当について、規約には何も書かれていない。書かれていないことはやっていい。
「規約に、返金の定めはございませんの」
あの子はたぶんそう言ったと思う。硝子越しなので聞こえなかった。
配り終えたところでこちらを向いた。
唇が動く。今度は読めた。
――あら。借金まで戻りましたわ。
困った顔をしていた。この庭で、あの子がいちばん困っていたのはたぶんこの瞬間だ。
観覧席のいちばん隅に、一人だけ座っている男がいた。
立ち上がって、帽子をかぶって、静かに歩いていく。誰も気づかない。誰も追わない。
追われたのは典礼省からで牢へは入らない。証拠が届いたのは職務違反までで、家を失った人たちのぶんは、どこにも届いていない。
私はその背中を、見えなくなるまで見ていた。
鐘楼の下に卓が出た。
白い布。銀の盆。ポット。それから、カップが2客。
「カップは、二客しかございませんの」
王太后陛下が言った。
「第1回のときのものですわ。あのころは、これで足りましたのよ」
陛下がポットを持ち上げる。
しわだらけの手が、慣れた角度で傾いた。琥珀が細く落ちて、湯気が上がって、途中でほどける。
第九条。優勝者には王太后陛下より直々にお茶をお淹れいただきます。
賞品というのはこの湯気ひとつぶんだった。
アデライド・グレンヴィルが、カップを受け取った。
一口飲んで、それから、私のほうへ差し出す。
「飲め」
「わたくし、優勝しておりませんが」
「知っている」
「賞品ですよ」
「私のものだ。誰に飲ませようと、私が決める」
受け取る。
温かい。ちゃんと温かい。誰かに淹れてもらったお茶を飲むのは、屋敷を出た日からずっとなかった。
飲んだ。
甘い。
舌の上に、渋みより先に甘みが来る。私が淹れてきたものとは順番が逆だ。
顔を上げると、アデライド様がこちらを見ていた。
「……砂糖は」
「え」
「砂糖は、どのくらい入れるものなんだ」
人にお茶を淹れたことがないのだ。
剣の手入れなら誰よりうまくて、一歩で人を落とせる。それでも砂糖の量を知らない。
私は笑った。笑ったら胸が痛んで痛いまま笑った。
「お相手によります」
「では、お前は」
「わたくしは、ふたつです」
「覚えておく」
覚えておく、と言われた。
次があるということだ。次があるというのは、ここで終わりではないということだ。
硝子の外にいた人がいまは内側にいる。
ハンナが立っていた。お仕着せのまま、両手を前で組んでいつもの真顔で。
「お迎えにあがりました」
「ハンナ」
真顔がこちらを向く。硝子の向こうで首を振ったときと同じ顔だ。
「賭けは、外れましたね」
「いいえ」
真顔のまま、ハンナは言った。
「当たっておりますわ。アデライド様が優勝なさいましたので」
薄情な侍女だ。
薄情な侍女が目を赤くしている。
帰り際、蜂蜜色の髪とすれ違った。
目を合わせない。合わせないまま、すれ違いざまに一言だけ落としていく。
「……あの袋、気づいた?」
「気づきました」
「ふうん」
それきりだった。あの人は最後まで謝らないし、たぶん、謝らないままでいい。
私は空の缶を拾い上げた。
中身は何もない。凹んでいて、蓋の噛み合わせも悪くて、持って帰ってもたぶん使えない。それでも持って帰る。
門をくぐる前に、招待状をもう一度出した。
裏返す。
『※本茶会は会場内のご参加者が一名になるまで終了いたしません』
終了いたしました、と書き足したかった。ペンを持っていないので、指でなぞるだけにした。
あの日、この一行を読んで、私は息ができなくなった。読み終わるまでは、ふつうの茶会の招待状だ。裏返したせいで全部が変わった。
いま、同じ紙を同じように裏返している。
書いてあることは、何ひとつ変わっていない。
「ハンナ」
「はい」
「ただいま」
「おかえりなさいませ、お嬢様」
門の向こうに王都の空が見えた。水色で、雲が薄く伸びていて、風がぬるい。薔薇を剪定していたあの午後と同じ色の空だ。
「……お茶を淹れて」
「お嬢様がお淹れになるのでは」
「今日はいいの」
私は空の缶を抱え直した。
「誰かに淹れてもらいたい気分なの」




