第28話 わたくし、参加しておりませんので
私は動かなかった。
動けなかったのではない。動かなかった。
膝の上には3つある。
ミレイユ様が押しつけていった帳簿。王太后陛下が差し出した規約の原本。それから、ドレスの内側に縫い込んだまま、火の中も持って歩いた私の招待状。
この3つがなければ、私はいま、素直に立ち上がっていたと思う。
「セシリア様。門は、あちらでございます」
「わたくし、退出いたしません」
「規約によりまして」
「規約なら、こちらにございます」
私は紙を広げた。指が震える。震えたままでいい。
声だけ落ち着いていれば、たいていのことは通る。社交で12年、それだけを覚えてきた。
「第七条。開会の鐘から閉会の鐘まで、会場からの退出はできません」
「棄権者は例外でございます」
「では、どちらでもない場合は」
審判官の口が半分開いたまま止まった。
「……は?」
「退出できないのは参加者です。棄権者は例外だとおっしゃいました。では、そもそも参加者でない者は、どちらに入りますか」
「そのような方は、この会場におりません」
「そうでしょうか」
私は招待状を裏返した。
あの日、屋敷の窓辺で裏返したのと同じ紙。同じ折り目。金の縁取りと、王家の薔薇の封蝋の跡。
『※本茶会は会場内のご参加者が一名になるまで終了いたしません』
この一行を読んだ日から、私はこの紙を裾の内側に縫いつけて持ち歩いてきた。
焼けても濡れても離さないと決めたのは、いつか使うと思っていたからではない。
「ご参加者、と書いてあります」
審判官は否定しなかった。書いてあるものは否定できない。
紙の上の三文字が、この庭でいちばん強い。
「倒れた者、ではありません。旗が上がった者、でもありません。参加者です」
「……変わりはございません」
「同じではありません」
私は王太后陛下の原本を開いた。
『第一条 参加者とは、招待状を受けた家の名において、この席に着く者をいう』
「陛下」
生垣の切れ目に、小さな人影が立っている。いつからいたのかはわからない。
「これは、いまも生きておりますか」
「ええ。消してはおりませんわ」
しわだらけの声がはっきり通った。
「追補は、原本を消せませんの。書き足すことはできても、書いてあるものをなかったことにはできませんのよ。わたくし、そこだけは自分で決めましたわ」
審判官が書類挟みを胸に抱え直した。
私は招待状の表を返す。
『拝啓 セシリア・ヴァルモント様』
宛名だけは、いまでもはっきり読める。
この名前で呼ばれて、私はここへ来た。
「わたくしの招待状の宛名は、セシリア・ヴァルモント」
「さようでございます」
「参加者とは、招待状を受けた家の名において、この席に着く者。つまりわたくしは、ヴァルモントの名において、ここにおります」
審判官の喉が動いた。飲み込む音まで聞こえた。
「では」
立ち上がった。
胸が痛む。痛いまま、背筋を伸ばした。膝を閉じて、顎を引いて。この庭でいちばん最初に覚えた形を、いちばん最後にもう一度使う。
「ヴァルモント家の名を、返上いたします」
空気が止まった。
最初に動いたのは、審判官ではなかった。
アデライド様が立ち上がる。
「待て」
呼ばれて、私は足を止めた。まだ一歩も進んでいないのに。
「お前、何を捨てるつもりだ」
「家名です」
「本気で言っているのか」
「わかっています」
「わかっていない」
声が生垣まで届いて、跳ね返ってきた。
この人の声が大きくなると、庭が急に狭く感じる。
「家名を返上するというのは、明日から別の人間になるということだ。父も母も、お前をその名で呼べなくなる。屋敷にも入れない。お前の帰る場所が、なくなる」
「知っています」
「なら」
「わたくし、帰りたいんです」
私は言った。
「帰るために、帰る場所を差し出します。おかしいのは、自分でもわかっています」
父の顔が浮かんだ。
勝たなくていい。帰ってこい。あの言葉を守るために、私はいま、その家のほうを捨てようとしている。
守るために来て、守ろうとして失う。この庭に着いてから、私はずっと同じことばかりしている。母のレースを裂いて走り、自分のドレスを裂いて包帯にして、いまは名前を裂こうとしている。
いつも捨てるほうが先に来る。
審判官の顔から、事務の色が抜けていく。
「陛下。お止めにならないのでございますか」
審判官が生垣のほうへ声を投げた。
「止める権限は、わたくしにございませんの」
陛下の答えは開会の日から変わらない。
「それに、止める気もございませんわ」
「……お待ちください」
「棄権の書類は要りません。棄権ではありませんので」
「では、何を根拠に」
「あなた方の運用です」
私は帳簿を開いて、あの頁を見せた。過去10回の名簿とその後の記録。
紙の上では、7つの家がただの空欄になっている。
「あなた方は、倒れた令嬢に机の前で書類を書かせて、家を返上させてきました。父の許しも、当主の署名も要らなかった。本人の一筆で足りるのでしょう。それで7つの家が消えています」
「……それは」
「わたくしはいま、頭が働いております。読んだうえで申し上げております。倒れて読めない方の署名が有効なら、読んで言っているわたくしの言葉は、もっと有効なはずです」
審判官は何も言わなかった。
言えないのだと思う。この人たちが積み上げてきた運用そのものが、いま私の側に立っている。
「ヴァルモントでなくなった者は、その招待状の宛先ではありません」
「……」
「宛先でない者は、招待状を受けた家の名において席に着いてはおりません」
「……」
「わたくし、参加しておりませんので」
アデライド様がゆっくり座り直した。
立ち上がっていた人がまた床に座る。膝を揃えて、背筋を伸ばして。もう止める気はないらしい。止める代わりに座った。
それがこの人にできる肯定の仕方だった。
硝子の天井から、日が真下に落ちてきていた。
「ひとつ、ご確認をよろしいですか」
審判官がようやく口を開いた。
「参加者でない方は、優勝者にはなれません」
「はい」
「賞品も、記録も、名簿への記載も、一切ございません」
数え上げられるたびに、手元から一つずつ減っていく。減っても構わないものばかりだった。
「本当によろしいのでございますか」
「よろしくありません」
私は言った。
「よろしくないですけれど、他に方法がありません」
優勝、という言葉を、私はこの庭で自分の口に乗せずに来た。乗せる必要がなかったからだ。口にして、そのまま手放している。
それから、もうひとつ思い出した。
――悪役令嬢セシリアは、淑女選抜戦にて脱落する。
前世で読み飛ばした、たった一行。掲示板の隅にあったのを「ふーん」で流して、この庭へ来てから毎日、あのときの自分を殴りたいと思っていた。
合っている。
私は脱落する。倒されるのでもなく、門をくぐるのでもなく、参加者でなくなるという形で。
書いた誰かはたぶんこの光景を見ていない。見ていないのに当たっている。当たり方がひどく雑で、雑なぶん、ようやく役に立った。
私がここへ辿り着いたのは、私が賢いからではない。
読めない帳簿を置いていった人がいる。自分の罪ごと原本を差し出した人がいた。あなた責任取れるんですかと、正面から聞いた子がいた。
あの3つがなければ、私はいまも焦げた床に座って、まずい葉っぱを煮ていた。
「会場内の参加者を、お数えください」
審判官の目が動いた。
私を見て、アデライド様を見て、それから書類挟みに落ちる。
数えるものはもう一つしかない。
「……一名」
「閉会の条件は」
「会場内のご参加者が、一名になるまで」
私は座り込んだ。
膝から力が抜けて、焦げた床に手をついた。炭が指の下でぱりぱり鳴る。この音を聞くのも、たぶん今日が最後だ。
「成立しております」
審判官がそう言って、深く頭を下げた。
誰に対する礼なのか、私にはわからなかった。私にでもアデライド様にでもない。たぶん、規約に対する礼だ。この人たちは最後まで、紙にだけ頭を下げる。
鐘楼の下で、小さな人影が動いた。
しわだらけの手が上がる。
その手が上がりきるより先に、硝子の向こうが動いた。
天蓋席が一斉に立ち上がった。
閉会の気配は外のほうが先に嗅ぎつけるらしい。この壁の内側にいる者より、札を握っている者のほうが、終わりの匂いに敏感だ。
歓声なのか、抗議なのか、私にはわからない。硝子は厚い。この壁は開会の日から一度もこちらの音を通さなかったし、向こうの音も通さなかった。
それでも立ち上がった人の数だけは数えられる。
一人、二人。そこから先は数えきれない。
私はこの庭でずっと数えてきた。残りの人数を、旗の本数を、茶葉の杯数を。減っていくものばかり数えてきた。
増えていくものを数えるのはこれが最初だ。




