第27話 もうやめない? お茶にしましょう
その日、硝子宮には誰も来なかった。
役人も審判官も担架も。王太后陛下は温室のほうへ戻られたきりで、硝子の外の天蓋席にも人はまばらだった。昨日あれだけ立ち上がって叫んでいた人たちが、今日は座って、退屈そうにしている。
賭けの盤面が壊れたからだと思う。胴元が消えて、札の行き先がわからなくなれば、見物する理由もなくなる。
残ったのは庭と二人だ。
二人になってから、私たちは互いの名前を呼ばなくなった。
呼ぶ必要がないからだ。話しかければ、相手は一人しかいない。この庭で名前というのは、誰かを他の誰かと区別するためのものだった。区別する相手がいなくなると、名前はただの音になる。
私たちは焦げた小屋の前で、朝から動かなかった。
日が真上に来て、それから傾いた。噴水の水音だけが、硝子の天井にぶつかって降りてくる。
「なあ」
「はい」
「これは、何日続く」
「わかりません」
「食料は」
「オレンジがあります。酸っぱいです」
「水は」
「井戸にあります」
答えるたびに、この庭に残っているものが一つずつ確認されていく。
オレンジと、井戸の水と、袋の底の茶葉。数えれば、まだ何日か分ある。
「では、当分このままだな」
「終わりません」
終わらない。
誰かが誰かを倒すまで終わらない。振れない手と、振る気のない手しか残っていない。私たちはこの茶会がいちばん想定していなかった二人になってしまった。
でも終わらせなければならない。
外にはリュシー様がいる。ソフィ様もマルグリット様も、オルタンス様もクロエ様も。名前を知らないまま見送った人たちもいる。あの人たちの署名した紙はまだ生きている。
閉会しなければ、何も決まらない。
私は立ち上がった。
ランプを拾う。油は1回ぶん。焦げた床の炭はもう湿ってしまって、火が起きにくい。今日はこれを使う日だ。
火を入れる。
指が震えて、二度失敗する。三度目でついた。あの日と同じで、指の腹を炎に押しつけそうになって、寸前で止めた。学習というのはこういう小さいところにだけ現れる。
ポットに水を注ぐ。
缶を開ける。凹んだ蓋は噛み合わせが悪くて、両手で回してようやく開いた。
中は空だ。
残っていた葉は昨日、陛下の側が引き取っていった。あれは証拠で、証拠のうえ、飲めば人が倒れるものだ。役人が布に包んで持っていくのを、私は最後まで見ていた。
噴水の水で三度すすいで、日に当てて乾かした缶。そこへ、オルタンス様の荷物にあった袋の中身を移す。
これで、この缶は元に戻った。
底を指でさらう。
角のところに葉が挟まっている。爪の先で掻き出すと、粉になったのが混ざった。粉は苦い。苦いのは知っているけれど、捨てられない。
2杯ぶん。ぎりぎり2杯ぶん。
ポットに入れて、湯を注ぐ。
湯が沸くまで6分。
その6分のあいだ、アデライド様は剣を膝に置いて座っていた。
磨かない。手入れをしない。ただ、置いている。剣に触らずに時間を過ごせる人だったのか、と思う。
湯が鳴りはじめる。細い音から、太い音へ。
蒸らす時間を私は数えた。
この庭で、リュシー様は数えなかった。数えないから熱すぎて、濃すぎた。まずくて、それでも全員が飲んだ。あれはあれで正しかったのだと思う。
でも今日は数える。最後だから。
注ぐ。
カップは1客と割れたほうが1客。琥珀が素焼きの縁で滲むこともなく、白い陶器の底にきちんと落ちた。久しぶりに、ちゃんとした器で淹れたお茶だ。
私はポットを両手で持ったまま、立ち上がった。
アデライド様も立った。剣を提げて。
向かい合う。
この庭で最初に会ったとき、アデライド様は扉の前に立っていて、私はポットの前にいた。あのときと同じ形だ。あのときは震えていた。いまも震えている。震えの中身が違うだけで。
「アデライド様」
「なんだ」
「もうやめない?」
敬語が抜けた。
抜けたことに、言ってから気づいた。学園でも社交界でも、私は12年間、誰にもこんな口をきいたことがない。
「……なんだと」
「もうやめませんか。この茶会に付き合うの」
私はポットを持ち上げた。
「お茶にしましょう」
風が吹かないので、湯気はまっすぐ上がった。
アデライド様は動かなかった。
長いこと動かなかった。
湯気が細くなっていく。ポットの中身は冷めていく。冷めてしまえば、これは最後の2杯ではなくなる。ぬるい水に変わるだけだ。
それでも私は急かさなかった。急かせば座らない。座るとしたら、自分で決めたときだけだ。
「私は、お前に勝たせてもらう気はない」
「わたくしも、あなたを負かすつもりはありません」
「では、どうなる」
「どうにもなりません。座るだけです」
「座れば、負けだ」
「負けかどうかは、規約に書いてありません」
彼女の指が柄の上で動いた。
握るのでも抜くのでもない。そこに在るのを確かめるだけの動きだった。
「書いていないことは」
「やっていいんです」
それがこの茶会を殴り合いに変えた理屈だった。
同じ理屈を、私はいま逆向きに使っている。使っていいのかどうかはわからない。わからないけれど、37年前に書かれた紙には、座れとも立てとも書いていない。
「姉は」
彼女が言った。
「自分で立ったそうだ」
「はい」
「私は、座る」
剣が鞘に納まった。
納めて、そのまま地面へ置く。柄が土に触れる音がした。膝にもない。腰にもない。手を伸ばしても届かないところに、あの剣がある。
彼女は焦げた小屋のほうへ歩いた。
扉は開いている。開いたままだ。閂は最初の日に折られて、それきり直っていない。
折ったのはこの人だ。
その扉から、この人が自分で入ってきた。
中に椅子はない。あるのは焦げた床と、藁の炭と割れた鉢。
彼女は床に座った。膝を揃えて、背筋を伸ばして。埃をかぶった円い椅子に座るのとたぶん同じ姿勢で。
私は割れたほうのカップを取って、無傷のほうを差し出した。
受け取った。
受け取って——飲んだ。
アデライド・グレンヴィルが、私の淹れたお茶を飲んだ。
「……渋いな」
「渋いです」
「薄めるものは」
「ありません」
「そうか」
もうひとくち。今度は少し長く。
私も飲んだ。割れた縁が唇に当たる。指の腹が熱い。渋みが舌の奥に来て、それから、遅れて甘みが追いかけてくる。
ちゃんと甘みがある。
缶を取られて、毒を入れられて。役人に持っていかれて、それでも袋の底で生き残っていたぶんにちゃんと。
二人ともしばらく黙って飲んだ。
焦げた小屋の中は静かで、外の噴水の音だけが遠くから届いている。誰も来ない。旗も上がらない。こんなに何も起きない時間は、この庭で一度もなかった。
「セシリア」
名前を呼ばれた。
この人が私の名前を呼んだのはこれが最初だ。
「はい」
「まずくはない」
「それは、褒め言葉ですか」
「そう受け取れ」
空になった。
カップが2つとも空になって、ポットの中にも何も残っていない。
持ち込みは3点だった。紅茶の缶と、小さなアルコールランプとティーセット一式。缶は空になり、油は使いきり、茶器は割れた。全部、役目を終えている。
武具は3点まで。武具でないものについては、規約はいまも黙ったままだ。
あの理屈で私はここまで来て、いま、その3点が手元から全部なくなった。
砂利を踏む音がした。
顔を上げる。
審判官が立っていた。若い。眼鏡はかけていない。書類挟みを抱えている。人は変わっても抱えているものは変わらないらしい。
「失礼いたします」
「なんだ」
「ただいまのご行為は、戦意の放棄と判断いたします」
「……何」
「規約により、着席は棄権とみなされます」
立ち上がろうとして、胸が痛んで途中で止まった。
「そんな条文はありません」
「追補にございます」
「見ておりません」
「本日付でございます」
目の前が白くなった。
長官が落ちても机は残る。書類も印も追補の権限も、全部そのまま次の人の手にある。あの人が落ちたのは、あの人が捕まっただけのことだった。
「両名、退出門へどうぞ」




