第26話 第四条を書いたのはどなたです
「典礼長官を呼んでくださいまし」
王太后陛下がそう言うと役人が走った。
担架を運ぶときですら急がなかった革の靴が、砂利を蹴散らして生垣の向こうへ消えていく。
場所は硝子壁ぎわを選んだ。
私が選んだ。天蓋席の正面。この庭で外からいちばんよく見える場所。あの人がいつも立っていた場所だ。見られたい人の気持ちが、いまなら少しわかる。
見られていないところで起きたことは、なかったことになる。
やってきたのは慇懃な人だった。
背は高くない。腰が低い。歩き方が丁寧で、こちらへ来るあいだじゅう、少し困ったような笑みを浮かべている。悪い人には見えない。悪い人に見えないというのが、この庭でいちばん危ない特徴だと私はもう知っている。
「陛下。お呼びと伺いまして」
「ダミアン。この方のお話を聞いてくださいまし」
私は石の上に順番に置いた。
まず、カップ。アデライド様が抱えたままだった、底に琥珀の残った1客。
その隣に帳簿。
その隣に、油紙に包んだ規約の原本。
「レスコー侯。第四条を書いたのは、どなたですか」
笑みが動かない。
「規約は、代々の典礼長官が整えてまいりました」
「では、第四条は」
「……わたくしの就任後の追補でございます」
「なぜ、毒を禁じたのですか」
「淑女の品位のためでございます」
「本当ですか」
「もちろんでございます」
私は帳簿を開いた。
昨日まで模様にしか見えなかった頁がいまは読める。読めるようになったのは私の手柄ではない。読み方を教えてくれた人が二人いた。片方は門をくぐって、片方は隣に立っている。
「第32回の記録です」
相手は頁を見ない。私の顔だけを見ている。
「この回、毒が使われました。本命が倒れています」
「存じません」
「倍率が跳ねています。胴元が払いきれなくなって、支払いを分割した記録が残っています」
指を次の頁へ滑らせる。
「第四条が追補されたのは、その次の回です」
硝子の向こうがざわめいた。
人が立っている。紙を持っている。この人たちは数字の話ならわかる。倍率の話なら、私よりずっと速く飲み込む。
「毒を禁じたのは、品位のためではありません。毒を使われると、倍率が読めなくなるからです」
「……面白いお話ですが、証拠が」
「あります」
私は顔を上げた。
「回収簿です」
笑みがそこで形を崩した。
私は日付を言った。
役人の袖からのぞいた、あの一行。読めたのは日付だけで、意味はわからなくて、それでも何日も頭の中で唱えていた数字。買い物の覚え書きみたいに、寝る前の祈りみたいに。
「この日、あなたのところの審判官が、わたくしの紅茶の缶を回収しました。毒物の使用は確認されませんでした、と申しまして」
「規定の手続きでございます」
「では、その缶はいまどこにございますか」
沈黙。
「陛下」
私は振り返った。
「典礼省の回収物を、お検めいただけますか」
しわだらけの手が上がった。
それだけで役人がまた走った。
缶が戻ってきたのは、それからしばらくしてのことだった。
布に包まれて、番号を書いた札がついている。私の缶だ。凹んだ縁も蓋の傷もそのまま。
蓋を開けるのに少し手間取った。
凹んだせいで噛み合わせが悪くなっている。両手で回して、ようやく開いた。この蓋の閉まる音で、私は毎日少しだけ安心していた。もうその音はしない。
底に、少しだけ残っていた。黒くて、細くて、指でつまむと折れる。あの匂いはしない。
王太后陛下がその中身を指の先に取った。
舌には乗せない。鼻に近づけて、それから、目を細めた。
「これは、お茶ではございませんわね」
「陛下」
「ダミアン。回収簿には、なんと書いてございましたの」
「……毒物の使用は、確認されず」
「確認なさらなかったのでしょう」
レスコー侯は答えなかった。
答えられない。もみ消すために書いた紙が、そのまま日付つきの証拠になっている。あの日、審判官が袖に挟んでいなければ、私は何も覚えていられなかった。
「まだございます」
私はもう一冊の頁を開いた。典礼省の出納簿の写し。ミレイユ様の字ではないほう。
「アデライド・グレンヴィル様が負けるほうに、大きな札が入っています。同じ日、似た額、別々の名前。裏の受付印は、全部同じ窓口です」
「賭けは、典礼省の管轄外でございます」
「では、この名前は」
指を止めた。
出納簿の欄に私財の出金がある。宛先は賭けの受付。
名前はダミアン・レスコー。
「胴元が自分の盤面に張るのは、あなたのお作りになった賭けの決まりでも、禁じられていたはずです」
「……わたくしは、この制度を預かってまいりました」
彼が言った。困った笑みのまま。声も来たときと同じ高さで。
「力のない家が領地を抱えているのは、国益に反します。整理が要るのでございます。この茶会は、その整理を穏当に行う唯一の仕組みでございました」
穏当。7つの家と、何十人もの娘に使う言葉ではない。
「誰も亡くなっておりません」
「家がなくなりました」
「家は、人ではございません」
この人は本気でそう思っている。
悪意で人を落としたのではない。整理をしていたのだ。自分を有能な官僚だと信じたまま、ここまで来て、いまも信じている。
硝子の向こうで、天蓋席が立ち上がった。
全部が立ち上がった。日傘が倒れ、卓が揺れ、葡萄酒の瓶が芝生に転がっている。誰も気にしていない。紙を振って、硝子を叩いて、何か叫んでいる。
声は届かない。
届かないほうがいい。あの人たちが怒っているのは、娘が倒れたからではない。自分の札が仕組まれていたからだ。
それでも今日はその怒りが役に立つ。
「ダミアン」
王太后陛下の声は小さかった。
小さいのによく通った。鐘楼の下で「毒はいけません」と言ったときと同じ調子だった。
「品位に欠けますわね」
レスコー侯は深く礼をした。
角度まで完璧な礼だった。この人はたぶん、最後の瞬間まで作法を崩さない。作法を崩さないことと、正しいことは、この国では別々のものらしい。
「レスコー侯」
黒いドレスが一歩前へ出た。
「あなたは、私を負けさせたかったそうだな」
「……とんでもございません」
「私は、あなたに負けさせられるつもりはない。勝つのも負けるのも、私が決める」
剣は抜かなかった。抜かないほうがこの人は怖い。
役人が彼を連れていく。
抵抗はしない。来たときと同じ歩幅で、同じ丁寧さで歩いていく。
私は座り込んだ。
膝が笑っている。声が震えなかったのは、社交儀礼が優だったからだ。優をもらっておいてよかったと、生まれて初めて思った。
炭を集めて、火を熾す。
湯が沸くまで6分。今日は少し長かった。
注いでひとくち飲む。残りは2杯になった。
「終わりましたのね」
王太后陛下が言った。
「はい」
「いいえ」
陛下が首を横に振る。
しわだらけの手が、鐘楼のほうを指した。竿には白い旗が30本。その下に鐘がある。
「わたくしが決めたのは、閉会の条件だけですの」
開会の日に聞いた言葉が、そのまま戻ってきた。
あのときは、心底どうでもよさそうに首を傾げた人だと思った。
「途中で止める権限は、わたくしにございませんのよ。作らなかったんですもの、そんな条文」
背筋が冷えた。
黒幕は落ちた。制度の腐りもたったいま硝子の外の全員が見た。それでも鐘は鳴らない。
この茶会が終わる条件はひとつしかない。
会場内の参加者が一名になるまで。
私は隣を見た。
黒いドレスが剣を提げて立っている。
まだ、二人いる。




