第25話 37年前はただの我慢比べ
目が覚めたとき、焦げた梁が見えた。
誰かが私をここへ運んで、燃え残りの藁を集めて、その上に寝かせたらしい。
起き上がろうとして、腕が動かなかった。動かないのではなく、動かす気力が出てこない。指先の感覚はもう戻っている。舌の奥にだけ、まだ苦みが残っていた。
外が明るい。朝だ。
ということは丸一日眠っていたことになる。
「お目覚めですこと」
声がした。
焦げた戸口のところに、小さな人が立っている。
背は私の肩までしかない。日に焼けていない手の甲に、細かい皺が寄っている。よく見ると、指の関節だけが少し太い。長く何かを握ってきた人の手だ。
王太后エレオノール陛下が、園丁小屋の敷居をまたいだ。
「あの、陛下」
しわだらけの手が、私の膝の上で組まれるのを待っている。
「昨日の、あの盆は」
「わたくし、菓子など贈っておりませんのよ」
答えが早い。早すぎるくらいに早かった。この方はきっと目を覚ました私がそれを聞くと知っていて、ここまで歩いてきたのだろう。
「歩けます?」
「……たぶん」
「では、少しお付き合いくださいまし。お見せしたいものがございますの」
アデライド様が私の腕を肩に回して、立たせてくれた。あの人の手にはまだ例のカップがある。眠るあいだも持っていたらしい。
生垣の、いちばん奥。井戸よりもさらに奥へ、陛下は迷いなく歩いていく。
この方向に、私は一度も行かなかった。行く用がなかった。水も生えるものもこちら側にはない。
道はあった。踏み跡が細く残っていて、生垣の枝がその上だけ払われている。誰かが定期的に通っている道だ。ただし歩幅が小さい。私の半分ほどの歩幅で、丁寧に何度も。
葉の壁が切れて、そこに建物があった。
硝子だ。硝子でできた、小さくて低い建物。硝子宮とは違う。全面が曇っていて、緑がかった白に濁っていて、中がまるで見えない。
扉を押すと蝶番が鳴いた。
中は円かった。
円く、椅子が並んでいる。20脚ほど。背もたれの高い、座面の低い椅子。どれも埃をかぶって、脚が土に沈みかけている。
真ん中には何もない。卓すらなかった。
椅子の座面には布がかかっていた形跡がある。いまは色の抜けた繊維が縁に貼りついているだけだ。背もたれの彫りは、王家の薔薇ではない。見たことのない花だった。山向こうの花なのかもしれない。
「第1回の会場ですのよ」
陛下はいちばん手前の椅子の座面から、油紙の包みを取り上げた。
開くと紙が出てくる。私の招待状に挟まっていたのと同じ体裁の、参加規約。ただし字が違う。印刷ではない。手書きだ。
「わたくしが書きましたの。37年前に」
受け取った紙は思ったより厚かった。指が震える。薬のせいなのか、そうでないのかは自分でもわからない。
『第一条 参加者とは、招待状を受けた家の名において、この席に着く者をいう』
席に着く。
その言葉を、私はそのとき何とも思わなかった。読んで次へ行った。
『第七条 閉会は、最後まで席に残った一名をもってこれを定める』
指が止まる。
倒れた、とは書いていない。落ちた、とも。座っているかどうかしか書いていない。
「……席に、残った」
「ええ」
「倒れた、ではなく」
「立たなかった者、ですわ」
顔を上げた。
円く並んだ椅子。20脚。真ん中には何もない。
真ん中に何もないのは、真ん中で何かをする必要がなかったからだ。
「何時間でも背筋を伸ばして、笑顔を絶やさず、席を立たない。それだけの茶会でしたのよ」
殴り合いの話をしていない。座っている話をしている。
私がこの庭で覚えた作法は、どこにも書かれていなかったもののほうだ。
「第1回は、6時間続きましたわ」
6時間。私が湯を沸かす時間の、60倍。
「わたくしが勝ちました。5時間目に隣の方が席をお立ちになって、それから1時間、わたくし一人で座っておりましたの」
一人で。誰もいない円の中で、しわだらけになる前のこの人が、背筋を伸ばして笑っていた。
「……なぜ、そんなことを」
「殿方に説明するのが面倒でしたの」
鐘楼の下で聞いたのと同じ言葉だ。あのときは冗談だと思った。冗談ではなかったらしい。
開会の日、この方は小柄なおばあちゃんだった。しわだらけで、笑うと目がなくなる。
「女に何がわかる、と言われ続けましたのよ。山向こうの小国から嫁いできた小娘に、この国の何がわかるのか、と。説明するより、お見せしたほうが早うございましたわ」
私は椅子の背に触れた。埃が指につく。
「6時間、背筋を伸ばして笑っている女を、あの方たちは見たことがございませんでしたの」
「では、武具の欄は」
「淑女は身を守るものを持っていてよろしい、という意味ですわ。持っていてよい、と書いたきり」
「使えとは」
「一行も書いておりませんの」
背筋が冷えた。
書いていないことはやっていい。
この庭で私がずっと使ってきた理屈が、そのまま逆向きに返ってきている。書いていないから、やっていい。だから誰かがそれを使って、我慢比べを殴り合いに読み替えた。
私の武器はこの茶会を壊した道具と同じものだった。
「陛下。なぜ、止めなかったんですか」
しわだらけの手が原本の端を撫でた。
撫でるというより、確かめている。ここにまだ在る、と。
「止めれば、消えますもの」
消える、という言い方をこの方もする。
帳簿の中でも、7つの家は消えていた。同じ字だった。
「女が公の場で競う場は、この国にひとつしかございませんの。止めれば二度と作られませんわ。作らせませんもの、あの方たちは」
「でも」
「ええ。でも、ですわね」
陛下は椅子のひとつに腰を下ろした。埃が舞い上がって、曇った硝子から落ちてくる薄い光の中でゆっくり回る。
「37年で、7つの家が消えました。何十人もの娘が家を失って帰りましたの。わたくしは全部存じておりました。存じていて、鐘を鳴らしておりましたわ」
「陛下」
「わたくしの罪ですの。あなたに差し上げます」
罪を、贈り物のように言った。
油紙の角が、こちらの膝に触れている。
「持っていてくださいまし。わたくしはもう、持っていても使えませんから」
油紙ごと、原本が私の手に押しつけられた。
紙は軽い。軽いのに、膝の上の帳簿より重い気がした。
アデライド様は扉のところに立ったままだった。
入ってこない。円の外にいる。この人は円の中に入ってはいけないと思っているみたいだった。
「グレンヴィルのお嬢さん」
「……はい」
「お姉様のこと、覚えておりますわ」
肩が動いた。
「7年前の回の。最後まで、よく座っていらっしゃいましたの」
扉のところで、黒いドレスが半歩だけ中へ入った。
「ええ。あの回はまだ、昔の形が少しだけ残っておりましたのよ。あの子は倒された方ではございませんわ。最後に、自分で席をお立ちになりましたの」
「立った」
「立って、そのままお立ち去りになりましたの。あれは負けではございませんわ。あの子は、この茶会にお付き合いするのをおやめになっただけ」
金属の音がした。
剣が床に当たった音だ。落ちたまま、誰も拾わない。あの人の手は、まだ柄があったはずの高さで止まっている。
私たちは温室を出て、焦げた小屋まで戻った。
私は炭を集めて、火を熾した。割れた鉢を立てて囲いにする。湯が沸くまで、ここだと6分では足りない。
「陛下、お茶を差し上げたいのですが」
「まあ」
「炭と、欠けた器しかございません」
「けっこうですわ」
注ぐ。残りは3杯ぶんになった。
王太后陛下は無傷のほうを両手で持って、ひとくち飲んだ。
「昔のお茶は、もっと濃うございましたのよ」
「……申し訳ございません」
「謝るところではございませんわ。嫁いできた年の冬、山を越える途中で飲んだお茶が、ちょうどこんな味でしたの」
37年前より前にも、この方には冬があったのだ。
「そういえば」
陛下が思い出したように言った。
「あなたのお父上から、書簡が届いておりますのよ」
「父が」
「刷り物の件で。娘の名を勝手に刷るのは何の権利によるものか、と。それから、領地の件でも問い合わせがございましたわ。典礼省ではなく、わたくし宛に」
「……父が」
「たいそうな悪筆でしたわ」
膝の力が抜けた。座っていてよかったと思う。
勝たなくていい、帰ってこい。そう言ったあの人が、王都で紙と喧嘩をしていた。私が硝子の中で葉っぱを煮ているあいだ、書斎の帳面から顔を上げて、王家へ書簡を書いていた。
「それから」
立ち上がりかけて、思い直したように腰を戻す。
「あなたのお母様、覚えておりますわ」
息が止まった。
「37年で唯一、観覧席で笑って席をお立ちになった方ですの」




