第24話 これ、うちの茶葉じゃない
朝、目が覚めて、自分がまだ数のうちに入っていることに驚いた。
30人が倒れて、2人が残っている。倒れた人たちは全員、この庭のどこかで書類に署名をして、東の門をくぐっていった。私は一度もあの門をくぐっていない。くぐらないまま、ここにいる。
残りが2人になると、硝子宮は急に広くなった。
同じ広さのはずなのに、音の返り方が変わる。生垣を歩いても誰の足音もしない。噴水の水が落ちる音だけが、天井まで届いて戻ってくる。
私とアデライド様は、焦げた小屋の前に座っていた。
どちらも動かない。動く理由がないからだ。あと一人減れば終わる。減らせるのはお互いだけで、片方は剣が振れず、片方は振る気がない。
先に口を開いたのはあちらだった。
「終わらせる気はないな」
「ありません」
「私もない」
二人で黙った。世界でいちばん行儀のいい膠着だと思う。
噴水の音が、二人ぶんの沈黙の上を往復している。
「アデライド様は、勝ち残られたらどうするんですか」
「記録に名が残る」
「その先です」
「……考えたことがない」
「考えてください。明日には終わるかもしれません」
「帰る。家へ」
「帰って?」
「剣を手入れする」
ぶれない。ぶれないことがいまは少しだけ羨ましい。私は帰ったあとのことを、この庭へ来てから毎日考えている。考えて、毎日違う答えが出る。
砂利を踏む音がした。
役人が二人、生垣を抜けてくる。片方が銀の盆を胸の高さで捧げ持っていた。
盆の上に、焼き菓子が並んでいる。琥珀色の艶。上に砂糖が振ってある。それと、白いポットがひとつ。カップが2客。
この庭で、こんなに整ったものを見るのは久しぶりだった。
「王太后陛下より、お二方へのお心遣いにございます」
役人が盆を石の上に置いた。
「長らくのご健闘に、と仰せでございます」
私は盆を見た。それから、役人の顔を見た。
柔らかい表情だ。丁寧だ。品位がある。この庭で私が学んだのは、そういう顔をした人がいちばん質が悪いということだった。
「ありがたく頂戴いたします」
断れない。王家の名で出されたものを断るのは品位に欠ける。断ったほうが咎められる仕組みになっている。
役人たちが下がる。下がって、生垣の手前で止まった。
見ている。
運んできた者がその場で見物をしている。そんな作法は聞いたことがない。
アデライド様が菓子へ手を伸ばした。
「お待ちください」
「なんだ」
「わたくしが先にいただきます」
「なぜだ」
「わたくし、お茶にはうるさいので」
本当のことは言っていない。
庇われるのを嫌うのは知っている。守られたら全部が嘘になると言った。だから、味の話にした。味の話なら口を出さない。
ポットを持ち上げる。
両手で持った。片手では持てないからだけれど、そうすると、作法としてはむしろ正しい形になる。
注ぐ。
色は綺麗だった。琥珀。私の缶に入っていたのと同じ色。湯気の立ち方もおかしくない。
匂いを嗅ぐ。
わからなかった。菓子の砂糖の匂いが強くて、その下に何があるのか読めない。
一口。
舌に乗せた瞬間に、間違いだとわかった。
「……まっず」
言ってから、自分の口を押さえた。
淑女が出していい声ではない。第一条。参加者は淑女として、常に品位を保つこと。私はいま、この庭に来てからいちばん大きく品位を落とした。
硝子の壁の外で、日傘が一斉に傾いた。身を乗り出す人がいる。この距離でも私の顔が見えたのだと思う。
役人の一人が生垣の手前で一歩前へ出た。
「いかがなさいました」
「まずいです」
「……は」
「まずいと申し上げております」
言いながら、私はもう一度カップを口に近づけた。
飲まない。匂いだけをもう一度嗅ぐ。今度は砂糖の下まで届いた。
苦い。ただ苦いのではない。
葉の苦みは舌の縁に来る。渋みと一緒に来て、あとから甘みが遅れて追いかけてくる。缶を取られてから毎日飲んでいた葉っぱの湯だって、苦みの場所は同じだった。
これは違う。
喉の手前で引っかかって、そこで熱くなる。飲み込んだ場所が、内側から少し腫れている感じがする。
「アデライド様」
「なんだ」
「菓子に触らないでください」
彼女の手が、菓子の手前で行き場をなくした。
銀の盆の縁に、指の影が落ちている。
「毒か」
「わかりません。でも、お茶がおかしいです」
役人の足音が近づいてくる。さっきまでの丁寧さが、歩き方から抜けている。
「お下げいたしましょう」
「結構です」
「規定でございます」
「どの規定ですか」
「……お下げいたします」
銀の盆へ伸びた手を、私はカップごと抱えて避けた。胸が痛んだ。痛みで手が滑って、中身が半分こぼれる。石の上に琥珀が広がって、砂糖の菓子を濡らした。
それでもカップの底にはまだ残っている。
「これは、証拠です」
「何のでございましょう」
「第四条」
役人の顔がわずかに動いた。
毒物の使用は品位に欠けるため、これを禁ずる。私が最初にあの規約を読んだとき、いちばんどうでもいいと思った条文だ。毒はだめなんだ、と思って、それで終わりにした。
「わたくし、これを飲みました」
「ご気分がすぐれぬだけかと」
「口に合わないのは、まずいときです。これは、まずさの種類が違います。わたくし、社交では優でしたの」
役人が黙った。
最初に来たのは指先だった。
しびれではない。感覚が少し遠くなる。自分の手が手袋を2枚重ねた向こうにあるみたいになる。
次に耳。噴水の音が遠くなって、代わりに自分の心臓の音が近くなった。
それから、視界の端が少し滲みはじめる。
立っているのがつらい。座ろうとして、うまく膝が曲がらなかった。アデライド様の腕が伸びてきて、私の肩を支える。剣を持つほうの腕だった。
「おい」
声が、耳の遠くなった側から来る。
「顔が白い」
「よくあることです」
「よくあってたまるか」
カップを離さないように両手で抱え直した。
これを離したら、いま起きたことは何もなかったことになる。この庭では記録に残らないものは起きなかったことになる。それを、私はもう学んでいる。
「アデライド様」
「なんだ」
「これ、持っていてください」
「私が持てば、割る」
「割らないでください」
「……ああ」
カップが私の手から離れて、アデライド様の手に渡った。
その指が少し震えていた。
震えている。この人が。
刃を向けられても、4人を一度に落としても一歩も動かなかった人が、割れそうな陶器を持たされて震えている。持ち方がわからないのだ。剣なら握れるのにこれは握れない。握ったら割れるものを、たぶん、生まれて初めて預かっている。
視界が下から暗くなっていく。
倒れる、と思った。倒れる前に言わなければならないことがある。倒れたあとの私は、たぶん何も言えない。
最後に、舌に残っているものをもう一度確かめた。
うちの缶の茶葉は、あの日ハンナが選んだものだ。渋みの奥に、ちゃんと甘みがある。ぬるくなっても渋みばかりが大きな顔をしても、奥に甘みだけは残っていた。
これにはそれがない。
あの缶の中身だけは、私が最後まで覚えている味だ。奪われても薬を入れられても覚えている。
「……これ」
声が出ているのかどうか自分でもわからなかった。
「うちの茶葉じゃない」




