第23話 扇を数えさせていただきます
帳簿の後ろのほうに、賭けの品目が並んでいる頁があった。
誰が最後に残るか。誰が何日目まで持ちこたえるか。それだけではない。もっと細かい、どうでもいいような賭けが、いくつも並んでいる。
その中に一行あった。
『アンベール様の武具点数について』
3点——1.05倍。
4点——12倍。
私は指を止めた。
武具は3点まで。規約にそう書いてある。だから3点であることに賭ける人は、ほとんど儲からない。1.05倍というのはそういう数字だ。
ではなぜ4点の欄がある。
なぜ12倍という値がついている。
ミレイユ様はこの項目を作った。作って、賭け客に配って回った。
あの子は知っていたのだ。知っていて、値をつけて、売った。
――読み方はご自分で。
読めましたわよ、と言ってやりたかった。あの子はもう門の向こうで、言ったところで届かない。
行く前に、火を熾して1杯淹れた。
残りは4杯。
なぜ淹れたのかは、自分でもよくわからない。これから人を落としに行くのに、炭を集めて湯を沸かした。蒸らして、注ぐ。手のほうが勝手に動いた。
飲む。渋い。渋いだけで、甘みは最後まで来なかった。
「アデライド様」
「なんだ」
「私、数えに行ってきます」
「何をだ」
「扇です」
その人は硝子壁ぎわにいた。
いちばん日の当たる場所だ。天蓋席の正面。この庭で、外からいちばんよく見える場所を、あの人はいつも選んで立つ。
見られたい人なのだと思う。記録に残ることが人生の全部だと言われれば、たしかに、見えないところで戦っても意味がない。
「あら。ごきげんよう」
私は挨拶を返さなかった。返す必要が、もうない。
「またお剣を?」
「持ってきておりません」
私の手にあるのは帳簿だけだった。両手で抱えている。重いので片手では持てない。
「では、何をなさりに」
「数えにまいりました」
私は硝子のほうへ一歩寄った。
外の天蓋席が少しざわめく。人が集まってくる気配。紙を持った紳士たちが、身を乗り出しはじめている。
「アンベール様。武具は3点までですね」
「ええ。規約ですもの」
「では、数えさせていただきます」
「どうぞ」
彼女は笑っていた。余裕のある笑い方だ。
この人は自分が数えられることを心配したことがない。当然だと思う。誰も数えなかったからだ。
「ひとつ。お手の扇」
「ええ」
「ふたつ。腰の短剣」
「ええ」
「みっつ。靴です」
笑いが少しだけ止まった。
「わたくし、踏まれましたので。左の靴の内側に、刃が仕込まれています。踏まれたときに、肋のほかにもう一箇所、切れたところがありました」
ドレスの胸元をめくって見せた。淑女のすることではない。淑女のすることではないけれど、硝子の外にはよく見えたと思う。
布が裂けている。裂け目の下に、まだ乾いていない線がある。
「靴で人を踏むだけなら、こうはなりません」
ジョゼット・アンベールの目が、私から硝子のほうへ動いた。
見られたい人が、いま、見られている自分を確かめている。
「よっつ」
私は言った。
「髪飾りです」
「……なんですって」
「開会の日、あなたは扇を振りました。わたくしの首の高さを、水平に。あのとき、髪の飾りが陽を弾きました。飾りが光るのは当たり前です。でも、あの光り方は石ではありません」
「憶測ですわ」
「あの日、わたくしは膝をついておりました。下から見上げる角度でした」
「だから何だとおっしゃいますの」
「石は、下から見上げても光りません。面が上を向いておりますから。下から光るのは、面が縦に立っているものです。刃か、針か、そのどちらかですわ」
社交で覚えたことのうち、宝石の見分け方だけは、この庭で本当に役に立った。
「では、外していただけますか」
彼女は動かなかった。
外さない。外せない。外せば、それが何かがわかってしまう。
硝子の向こうで、声にならない何かが起きていた。天蓋席の紳士たちが立ち上がっている。紙を振っている。指を折って数えている人がいる。
あの札を持っているのだ。
『アンベール様の武具点数について』——4点、12倍。
この庭で誰も数えなかったものを、外の人たちは自分の金のために数えはじめた。
砂利を踏む音。
典礼省の記章をつけた男が、書類挟みを抱えて歩いてくる。眼鏡の縁が細い。品位の話をしにきた、あの人だった。
「お騒がせでございますね」
「武具点数の違反です」
「確認いたしました。3点でございます」
「数えていらっしゃいません」
「確認いたしました」
私は硝子のほうへ顎を向けた。
「では、あちらの方々にも、そうおっしゃってください」
審判官の目が動いた。
天蓋席がこちらを見ている。日傘が全部たたまれている。誰も葡萄酒を飲んでいない。紙を掲げて、硝子に押しつけて、口を大きく開けて何か叫んでいる人がいる。
声は届かない。届かないのに、何を言っているかは、はっきり読み取れた。
数えろ。
この人たちはいま初めて、自分の金のために正しいことを要求している。
審判官が扇を見る。短剣を見る。靴を見て、それから髪飾りを見た。
その顔から、笑みが消える。消えたあと、今度は戻らなかった。
「アンベール家、ジョゼット様」
「……お待ちになって」
「武具の持ち込みは、おひとりさま3点までとさせていただいております」
「わたくしは」
「武具の点数に関する定めの違反により、失格といたします」
旗が上がる。
鐘楼の竿で、30本目の白が、風もないのに垂れた。
残りは2人。
「それから」
審判官が書類挟みをめくった。
「規約により、違反の判明した参加者の過去の成績は、遡って取り消されます」
ジョゼット様の指が髪飾りにかかった。
「第33回。第35回。いずれも優勝記録を抹消いたします」
「待って」
「記録は、更新後の名簿に反映されます」
「待ってと申しております!」
声が割れた。
「わたくしは、あの2回を、この庭で」
「記録に残らない事柄は、なかったことになります」
その言葉を私は知っている。
覚えているだけのものは、忘れられたら終わる。誰かがそう言った。屋根裏の低い天井の下で、姉の名前の話をしながら。
ジョゼット・アンベールが私を見た。
憎しみではなかった。もっと単純な、置き去りにされた人の顔だった。
「あなた、剣も持たずに」
「はい」
「数えただけで」
否定するところが一つもない。
「そんなもので、人を落とすの」
答えられなかった。
落としたのは私だ。剣ではなく、数字で。
この人が4点目を使ったのは事実で、それを規約が禁じているのも事実で、私は事実を数えたにすぎない。それなのに、手のひらに何か重いものが残っている。
抱えている帳簿より、そちらのほうが重い。
役人が彼女を連れていく。抵抗はしなかった。この庭の令嬢はみんな、最後は自分の足で歩く。
生垣の陰に、黒いドレスが立っていた。
いつからいたのかはわからない。剣は抜いていない。
「見ておいででしたか」
「見ていた」
「軽蔑なさいますか」
「……いや」
「では」
「私には、できない手だ」
褒めているのか、そうでないのか、わからない言い方だった。この人はいつも私の予想の斜め後ろから答える。
硝子の外で、歓声が上がっている。
聞こえないはずの音が、なぜか今日は届いた。天蓋席が揺れている。札を握った手が上がっている。12倍を取った人たちが笑っている。
誰も記録の話はしていない。
そのうちの一人が、硝子に口を寄せて、大きく叫んだ。
今度もやはり声は届かない。
届かないのに、唇の形だけがはっきり読めた。
――あの女、戦わずに人を落としたぞ。




