第22話 招待状は選ばれて届く
朝になっても帳簿は膝の上にあった。
抱えたまま眠ったらしい。表紙に頬の跡がついている。
開いた。
最初の頁で私は挫折した。
夜のあいだに、何度か開いては閉じた。開くたびに違う頁を選んで、違う頁で同じように詰まった。焦げた小屋にはもう明かりがない。硝子の天井から入ってくる月の色だけで、細かい字を追おうとしていたのだから、無理もない。
数字だ。数字と名前と日付。それに記号。記号の意味がわからない。丸と、三角と二重線。同じ数字が縦に並んで、隣の列では別の数字に置き換わっている。
私は成績表なら読める。招待状も規約も、社交の案内状も読める。でもこれは私の知っているどの紙とも違う言葉で書かれていた。
昼近くになって、焦げた戸口に影が立った。
黒いドレスがもっと黒くなっている。煤とそれから別の色。左の袖が肩から裂けて、腕に布が巻いてあった。結び目が雑だ。自分で巻いたらしい。
「生きていたか」
「そちらこそ」
「あれは強い」
アデライド様は座り込んで剣を膝に置いた。それから、長い息を吐く。息を吐くという動作を、この人もするのだと知った。
布の結び目が、息のたびに少し動く。血はもう乾いている。
「決着は」
「つかん。向こうが引いた。小屋を焼けば用は済む、という顔をしていた」
「怪我は」
「腕だ。使える」
「その巻き方でですか」
「動く」
話にならないので、私は帳簿を持ち上げた。
膝から離すと、腿のところに四角い形の温みが残っていた。
「それは」
「ミレイユ様のです。置いていかれました」
「読んだか」
「読めません」
「見せろ」
彼女は帳簿を受け取って、膝の上で開いた。
指が頁を追う速さが私とまるで違う。読み慣れた手つきだった。7年前の名簿も、一度は自分の目で見ている。
「丸は、確定した札だ」
「え」
「三角は仮受け。二重線は取り消し」
「なぜおわかりに」
「うちの家令が同じ書き方をする。商家から来た男だ」
覚えのある記号を、ぱらぱらと拾っていく。私が一晩かけて眺めていたものが、みるみる意味を持ちはじめた。
読めるというのは、こういうことなのだと思う。同じ紙を見ているのに、見えているものの数が違う。私が模様として見ていたところに、この人は文章を見ている。
「日付を見ろ」
指された列に、細かい日付が縦に並んでいる。
「招待状の発送日だ。うちに届いたのは、開会の3か月前」
私の招待状の日付は覚えている。金の縁取りも、封蝋の薔薇も。
忘れようがない。裾の内側に、いまも縫いつけてある。
「うちは1か月前でした」
「順番がある」
頁がめくられて、別の列を指す指が止まった。
「発送の早い家から、倍率が低い」
「……最初から?」
「開会の前から、順番は決まっている」
硝子の天井から落ちてくる光が、頁の上で白く跳ねた。目に痛い。招待状が届いた日の、あの光と同じだ。
「それに、混ぜてある。強い家と、弱い家だ。同じ回に両方入れてある。うちとお前が同じ回に呼ばれたのは、偶然ではない」
偶然の茶会に180倍という数字はつきませんわ。
あの子はあのときもう全部わかっていて、それを商売の話として私に聞かせていた。
「ここだ」
アデライド様の目が、同じ行を二度なぞった。
「私が負けるほうに張られた札。日付が全部同じだ。額もほとんど同じ」
「お名前は」
「別々だ。だが」
彼女が頁を裏返す。
紙の裏は表より白い。刷りの油が乗っていないぶんだけ。
「札の裏に、受付の印がある。同じ窓口だ。同じ日に、同じ窓口で、別々の名前が届け出ている」
「どこの」
「典礼省」
言葉が出なかった。
その先の頁に名前があった。
ミレイユ様の字ではない。写しだ。典礼省の出納簿から書き写したものらしく、罫線の形が違う。
同じ名前が何度も出てくる。
ダミアン・レスコー。
「王室典礼長官だ」
「ご存じなんですか」
「うちが揉めている相手だ」
剣の話をするときの声だった。低くて、平らで温度がない。
「もう一つある」
最後のほうの頁が開かれる。
「過去10回の参加者名簿と、その後の記録だ。7つの家が消えている。家名返上だ。消えた家の領地に置かれた代官の名前が、全部、典礼省から出ている」
7家。10回。
誰かの計画で7つの家が消えた。倒れた令嬢たちが、頭の働かない時間に紙へ署名をして、その署名を集めて回った人がいる。あの机と、あのインク壺と、あの読み上げる声で。
「アデライド様」
「なんだ」
私は頁を戻した。過去10回の名簿の写し。7年前の回の列。
「これ」
彼女の親指が、罫線の上で行き場をなくした。
そのまま、動かなくなった。
「……ある」
声が、さっきまでと違う場所から出ている。
「姉の名前が、ある」
ミレイユ様の帳簿は、典礼省の記録ではない。賭けの胴元が自分の商売のために書き写したものだ。だから、消される前の名前がそのまま残っている。
「なぜ、こんなものを写す」
「倍率をつけるのに要るからだと思います。誰が出て、誰が勝ったか」
アデライド様は長いことその一行を見ていた。
それから、指の腹でその名前を撫でる。撫でて、すぐに手を離した。
「……この帳簿は、お前が持て」
「え」
「私が持つと、燃やす」
返す言葉がなかった。
私は自分の名前を探した。
あった。列の下のほう、いちばん端に。
セシリア・ヴァルモント。180倍。
その隣に、日付ごとの数字が並んでいる。
180。55。40。28。18。
下がっていく。生き延びるたびに下がっていく。
そして18の隣に丸が並んでいた。確定した札。それもたくさん。
18の日付を見た。
小屋が焼けた日だ。
「アデライド様」
「なんだ」
「私が倒れても旗が上がらなかったのは」
言いながら、声の出方が変になった。
「大穴が生きているあいだは、札が売れるからです」
「……ああ」
「私が18倍まで落ちた日に、小屋が焼かれました」
彼女は何も言わなかった。言わないのが答えだった。
私は立ち上がって、火を熾した。
ランプは使わない。油は1回ぶんしか残っていないから、あれは取っておく。代わりに焦げた床から炭を集めて、割れた鉢で囲いを組んだ。煙が目に染みる。火が小さいので、今日は待つ時間が長い。
注いで差し出す。
アデライド様は受け取って、また膝に置いた。飲まない。受け取って、飲まない。今日もだ。
「残りは5杯です」
「そうか」
「5杯で何ができると思いますか」
「知らん」
「私もです」
私はずっと、運がいいと思っていた。
鐘が鳴って2分で終わると言われて、それでも私はまだ座っている。首を狙われて、逃げ切った。旗が上がらなかったときは、誰かが見逃してくれたのだと考えている。見逃されるのは嫌だと言いながら、心のどこかで少しだけ助かったと思っていた。
守られていたのではない。
飼われていたのだ。
餌をやって生かして、値がついているあいだは大事にする。値が落ちたら片づける。私が湯を沸かして人を集めて、誰も倒れない場所を作っているあいだ——その全部が、どこかの紳士の札の値段になっていた。
園丁小屋は休戦地帯ではなかった。
見世物だった。
「おい」
声が遠かった。
「帳簿を離せ。破れる」
指に力が入っていた。慌てて手を開く。革の表紙に、爪の跡が4つ残っていた。
立ち上がる。
胸が痛んだ。痛みはいまはどうでもいい。
焦げた戸口から外へ出て、硝子の天井を見上げた。その向こうに空があって、空の下のどこかに王都があって、王都のどこかに典礼省の建物がある。
あの人たちはいま、この庭を数字で見ている。
私の名前は刷り物になった。臆病者と書かれた。あれも札を売るための材料だったのだといまならわかる。誰かが私を憎んだのではない。憎ませたほうが売れるから、そう書かせた人がいる。
誰にも憎まれていなかったというのは、憎まれるよりずっと悪い。
私は息を吸った。吸うと痛い。痛いまま、もう一度吸った。
「……ごきげんよう、じゃないわよ」




