第21話 読み方は、ご自分で
焦げた小屋の中は、日が落ちてから急に冷えた。
この庭に寒い場所はない、と私は井戸のそばで言った。言ったそばから訂正したくなる。燃えたあとの部屋は、燃える前より冷たい。熱を出しきってしまったものはこうなるらしい。
ミレイユ様は膝を抱えて座っていた。抱えた膝の上に帳簿を載せて、その上に顎を置いている。羽根ペンはどこにも見当たらない。
その一言を、私はうまく受け取れなかった。
降りる。ミレイユ・デュノワが。参加しながら胴元をやると倍率が跳ねますの、と言った子が。
「……勝つ気が、なかったんですか」
「一度もございませんわ」
ミレイユ様は焦げた床の炭を指でつまんで、指先を見て、それから膝で拭った。ドレスに黒い筋が残る。気にしていない。
「うち、潰れておりますの。借金ですわ。祖父の代から。父が持ち直すと申しまして、持ち直しませんでしたの」
デュノワの家のことを、私は何も知らなかった。
賭けを開いて、帳簿を抱えて、参加しながら胴元をやると笑っていた人。デュノワ子爵家の三女。それ以外を、私は一度も知ろうとしなかった。知ろうとさせないのが、たぶんこの子のやり方でもある。
「でも、あなたのお家は子爵で」
「爵位は、借財の担保にはなりませんのよ」
彼女の言い方はいつもの商売の調子と変わらなかった。値段の話をするときと、家の話をするときの声が同じ。
膝の帳簿の角が、話しているあいだに少しずつこちらへ向いてくる。
「家名を返上いたしますと、借財も一緒に返上できますの。家がなくなれば、家の借金もなくなります。人は残りますけれど、人には差し押さえるものがございませんもの」
喉の奥が乾いた。
「では、あなたにとって」
「ええ。家名返上は罰ではございませんわ。出口ですの」
出口。
東の門の机も書類も、あの抑揚のない読み上げも。ミレイユ様にとっては全部、出ていくための手続きだった。同じ机の前で、何人もが人生を取り上げられたのに。
「東の門で、机を見た日のことです」
「ございましたわね」
「あのとき、あなたは知っていると言いました」
「申し上げましたわ」
「なぜ、教えてくださらなかったんですか」
「聞かれませんでしたもの」
「聞きました」
「聞かれたときには、お答えいたしましたわ」
その通りだった。この人は嘘をついていない。一度も。ついていないから、余計に始末が悪い。
焦げた床の冷たさが、座っている膝から上がってくる。熱を出しきったものの冷たさだ。
「腹が立ちます」
「でしょうね」
「あなたが黙っていたせいで、何人か家を失いました」
「わたくしが黙っておりませんでも、失いましたわ」
言い返そうとして、口が止まった。
井戸のそばで私は言った。棄権すると家名を返上することになりますと、間に合ううちに言った。
あの人は歩いていった。
「……知っています」
「あら。もうご存じでしたのね」
ミレイユ様はたぶん、私がそれを知る日が来ることも計算していた。計算していて、待っていた。
私はランプを拾い上げた。
油は2回ぶん。今日使えば、1回になる。
「淹れます」
「よろしいの?」
「よくありません。でも淹れます」
火を入れる。焦げた床の上でまだ火を使う気になるのが自分でもおかしい。
湯が沸くまで6分。
眺めるものが、もう焦げた壁くらいしかない。
無事なカップは1客きりなので、ミレイユ様に渡した。私は割れたほうを持つ。持ち手が取れているから、指の腹が焼ける。焼けるけれど、持てないほどではない。
「あなた、この庭でいちばん損をしておりますわ」
「そうですか」
「紅茶を取られて、名前を刷られて。骨を折られて、居場所を焼かれて。何ひとつ得ていらっしゃいませんの」
「得たものもあります」
「何ですの」
「……いま、思いつきません」
「ほら」
ミレイユ様は一口飲んで、それから、両手でカップを包み直した。
持ち手のある側だ。割れていないほうを渡した。
「濃いですわね」
「薄めるものがありません」
「けっこうですわ。このほうが、覚えていられますもの」
この人が味の話をした。
この庭に来てから、数字以外のことを言ったのは、たぶんこれで二度目だ。
飲み終わって、カップが置かれた。
それから、膝の上の帳簿が持ち上がる。
「これ、差し上げますわ」
言われた意味が、手より先に頭へ届かない。
帳簿は膝に載ったままだ。まだ渡されていない。
「持っていっても、門で取り上げられますの。書類は全部あちらが預かる決まりですから」
「では、燃やしてしまえば」
「もったいないでしょう」
彼女は私の膝の上に帳簿を置いた。
重い。厚い。表紙の革が手のひらに冷たい。ずっと小脇にあるのを見てきたものは、こんな重さで抱えられていたのか。
表紙を撫でる。革が擦り切れて、角が丸くなっていた。何年も使い込まれた帳簿だ。この庭へ来てから用意したものではない。
家が潰れるより前から、この子は数字を数えていた。数えて、数えて、数え終わったときには出口しか残っていなかった。
「なぜ、私に」
「最後に一度だけ、大穴に張りたくなりましたの」
張る、という言い方をした。人にではなく、数字に。
「180倍から55倍へ、55倍から18倍へ落ちて、それでもまだ座っていらっしゃる方。わたくし、こういう数字がいちばん好きですのよ」
好き、と言われた。
いちばん遠いところにあると思っていた言葉だった。
「読み方を教えてください」
「いやですわ」
「なぜ」
「読み方まで差し上げたら、わたくしの取り分がなくなりますでしょう」
「ええ。あなたが読めたときに、こちらが正しかったことになりますの。そこが儲けですわ」
この人は最後まで賭けている。
降りると言いながら、賭けだけは降りていない。
「ミレイユ様。配当は、どうなさるんですか。あなたが降りたら」
「優勝者が決まれば、支払いは発生いたしますわ。どなたが優勝なさっても」
「払えるんですか」
彼女は立ち上がって、ドレスの裾についた炭を、今度はきちんと払った。
「さあ。そのころには、わたくしはデュノワではございませんもの」
冷たい答えだった。冷たいのに、この人が言うと不思議と嫌ではない。値段の話も家の話も同じ声で言いきってしまうからだと思う。
「セシリア様」
炭を払った手を、そのまま下ろさずにいる。
「わたくし、あなたのお茶を二度いただきましたわ。屋根裏と、ここで。勘定に感情が混ざりましたの。おかげで、いくつか読み違えました」
「読み違えて、どうなりましたか」
「損をいたしましたわ。ずいぶん」
そう言って、彼女は笑った。損の話をしているのに、この庭で見たどの顔よりも軽い笑い方だった。
合わないまま笑えるようになったのが得なのか損なのか、私にはわからない。本人にもわかっていないだろう。
生垣の切れ目で、肩ごしにこちらを見た。
「セシリア様」
言い忘れた、という顔ではない。最初から最後に言うと決めていた顔だ。
「読み方は、ご自分で」
それきり、栗色の巻き毛は見えなくなった。
29本になった。
残りは3人。
私は膝の上の帳簿に手を置いた。
開く気にはまだなれない。開けば、何かがわかってしまう。わかったところで、この庭でできることは何ひとつ増えないのに。
それでも指は表紙の端にかかっていた。かけたまま、動かせない。読めば戻れない気がして、読まなければ何も始まらない気がして、しばらくそのままでいた。
膝の上の帳簿はちょうど、あの日のトランクと同じくらいの重さだった。
刃物でも杖でもないものを詰めて、私はここへ来た。持ってきたものは、全部なくなっている。缶もランプの油も。茶器も母のレースも。
代わりに、また、刃物でも杖でもないものが膝に載っていた。
この重さだけがいま私の手元に残っている全部だ。




