第20話 割れたカップと空の小屋
「3つのうち、2つは典礼省だ」
板の隙間に目を当てたまま、アデライド様が言った。
「役人ですか」
「記章が見える。前を歩いている。生垣を掻き分けて、道を作っている。後ろの1つのために」
私は身を起こそうとして、胸が跳ねた。リュシー様に肩を押さえられる。
「扇だ」
肋の下で、心臓だけが速くなった。
「あの方たち、戦わないんですか」
「戦わん。手を汚す仕事は請け負わない連中だ」
道を教えるだけ。教えて、あとは見ている。旗が上がっても上げたのは自分ではないことになる。この庭で覚えた仕組みが、また同じ形で使われている。
「なぜ今日なんです」
「知らん」
アデライド様は剣を掴んで梯子へ足をかけた。
「お前の値が下がったからだろう」
それだけ言って、降りていく。
値。18倍。大穴が大穴でなくなったということは、生かしておく理由がなくなったということだ。あのときは意味がわからなかった数字が、いま、急に意味を持ちはじめている。
「セシリア様、袋を」
リュシー様が茶葉の袋を私の懐へ押し込んだ。それから、私の腕を自分の肩に回す。
「逃げます」
「アデライド様が」
「あの方は逃げません。私たちは逃げます」
この子の判断はいつも私より速い。
梯子を降りるのに、たぶん半刻かかった。一段ごとに胸が軋む。息を止めて、また一段。下りきったとき、外ではもう金属の音がしていた。
外の音は私が知っているどの音とも違った。
剣と剣がぶつかる音は、思っていたより低い。高く鳴るのはたぶん外れたときだ。当たると鈍い。その鈍い音のあいだに、扇の骨が鳴る乾いた音が挟まる。
あの一歩で終わらせる人が、一歩では終わらせられない相手とやり合っている。
扉から出る。閂は最初から折れている。閉められない家から出るのに、手間はいらない。
生垣へ入る。
葉の壁のあいだを、リュシー様が私を引きずるみたいにして進んでいく。右、左、右。この子も道を覚えている。私が教えたわけではない。ついてくるうちに覚えたらしい。
井戸まで来て、石の縁に座り込んだ。
ここはいちばん深い場所だ。音が減る。減った音の向こうで、まだ金属が鳴っていた。
「アデライド様、勝ちますよね」
「勝ちます」
「そうですよね」
私たちは同じことを二度ずつ言った。言い合わないと、座っていられなかった。
井戸の水面に、顔が2つ並んで映っている。
煤も泥もついていない水の中の顔だけが、平気そうにしていた。
「セシリア様、手が震えてます」
「あなたもです」
「私は寒いんです」
「この庭に寒い場所はありません」
「じゃあ、震えです」
金属の音がやんだ。
しばらく、何も聞こえない。
それから、匂いが来た。
煙だ。
顔を上げる。生垣の向こうの空——硝子の天井に、黒いものが張りついている。溜まって、広がって、天井にぶつかって行き場をなくしている。
「小屋が」
リュシー様が走り出した。止める間もなかった。
私は歩いた。走れないので歩いた。歩いているあいだじゅう、煙の匂いが濃くなっていく。藁の焦げる匂いと、それとは別の、油の焦げる匂い。
着いたとき、火はもう小さくなっていた。
燃えるものが尽きたからだ。
小屋は建っている。壁も扉も屋根も残っている。残っているのに、中身だけが全部だめになっていた。
床の藁が黒い塊になっている。棚は炭だ。壁に並べていた剪定鋏は、柄だけ焼け落ちて、刃が床に転がっていた。
素焼きの鉢は火では燃えない。燃えないのに割れている。踏まれたか、投げられたか。人がわざわざそうしないと、鉢はこういう割れ方をしない。
壊すために来たのだ。倒すためではなく。
その真ん中に、ランプが倒れている。
油が流れた跡が床板に黒い川を作っていた。あの油が藁に染みて、火を運んだ。
拾い上げる。本体は歪んでいるだけで使える。振ってみると、底のほうで音がした。
2回ぶん。よくて2回。
「セシリア様」
リュシー様の声がいつもと違った。
彼女が指さした先に、白いものが散っていた。
受皿だ。
祖母から母へ、母から私へ渡ってきた薄い白磁が、粉に近い大きさまで砕けている。踏まれたのだと思う。落ちて割れたのではこうはならない。
その隣にカップが1客。
持ち手のところで割れて、2つになっていた。
私はしゃがんだ。しゃがむのに、思ったより時間がかかった。
破片を拾う。指を切った。切ったことに気づいたのは、白磁に赤がついてからだった。
「セシリア様、手が」
「聞こえています」
もう1客は鉢の山の下から出てきた。無傷だった。無傷なのがなぜか余計にこたえる。
揃いで持ってきたもののうち、形を保っているのはこの2客だけだ。片方には持ち手がない。
立ち上がろうとして、私はリュシー様のほうを見た。
この子が右腕を左手で押さえている。
「……いつからですか」
「小屋に着いたときです」
「見せてください」
「大丈夫です」
「見せてください」
袖をめくると、肘から下がひどいことになっていた。切られたのではない。焼けている。燃えている藁を素手で払ったのだ。私が来る前に、この子は一人で火を消そうとしていた。
「なぜ」
「カップを、出そうとして」
言葉が出なかった。
この子が守ろうとしたのは、私の家の茶器だった。この子の家の畑には水路が要るのに、他人の家の白磁を火の中から出そうとした。
担架の足音がする。この庭で、いちばん正確に来るのはいつもこれだ。
リュシー様が言った。
「行きません。まだ立てます」
「その腕では」
「腕は使いません」
役人が二人、焦げた戸口に立った。片方が書類挟みを開いている。
「ロンサール家、リュシー様。負傷の程度により、続行不能と判断いたします」
「まだ立っています」
「規定でございます」
「私が決めます」
「規定でございます」
二度目は一度目と、抑揚まで揃っていた。その場で考えて喋る人の声ではない。どこかに置いてある紙を読み上げている。
リュシー様は私を見た。
目は乾いていた。乾いたまま、瞬きだけが速くなっていく。
「セシリア様」
瞬きの速さが、そこで一度落ちた。
「私、役に立ちましたか」
声が震えていた。腕のせいではない。
私はこの子の顔をまっすぐ見た。目を逸らしたら、答えが嘘になる。
「立ちました」
「本当ですか」
「あなたがいなければ、私はとっくに門をくぐっていました」
この子は少しだけ笑って、それから担架に乗った。自分で乗る。誰にも支えさせなかった。
担架が生垣の切れ目に消えるまで、私はそこに立っていた。立っているだけなら、まだできる。できることがそれしか残っていない。
鐘楼の竿に白がひとつ増えた。28本。残りは4人。
アデライド様は戻らなかった。
金属の音がやんでから、あの人の足音も扇の骨が鳴る音も、どちらも聞こえていない。追ったのか、追われたのか、それとも別々の方向へ歩いたのか。
焦げた戸口の前の土に足跡が残っていた。数えると3つぶん。どれも外へ向かっている。
私は焦げた床に座り込んだ。
立ち上がる理由が、今日も見つからない。膝の下で藁の炭がぱりぱり鳴って、指の切り傷がじんじんして、煙の匂いが髪にまで染みている。
どのくらいそうしていたのか、わからない。
硝子の天井に張りついていた煙は、少しずつ薄くなっていった。行き場がないなりに、どこかへ抜けていくらしい。この庭は煙にだけは出口を用意している。
衣擦れの音がした。
ミレイユ様が私の隣に腰を下ろす。ドレスの裾を焦げた床に直接つけて、炭の粉が白い布に灰色の縁を作っていくのを、目で追いもしない。
「わたくし、そろそろ降りますわ」




