第19話 姉の名は、記録に残っていない
黒が板の隙間を塞いだ。
それから、頭が見えた。
あの人は梯子の途中で一度止まって、屋根裏の中を見回した。埃と麻袋と、横になっている人間と鉢が3つ。何かを判断する顔をして、それから残りの段を上がってくる。
屋根裏は大人が3人いるともう満員だ。
そこへ4人目が来たのだから、話にならない。
アデライド様は梁に頭をぶつけて、いちど身を屈め、それから諦めて座った。剣は膝の横に置いている。抜かない。この狭さでは抜けない。
4人だと膝と膝が触れる。剣を提げた人。剣を落とした人。剣を持ったことのない子。剣を数字に換える人。この庭にあるものが、全部この広さに詰まっていた。
「わたくし、退散いたしますわ」
ミレイユ様が立ち上がった。
「もういいんですか」
「ここにはもう、動く数字がございませんの」
嘘だと思う。ミレイユ様はいま自分がいないほうがいい場面だと判断したにすぎない。判断が速いのは商売柄で、そういう速さの使い方をする人でもある。
梯子を降りる音が遠ざかって、屋根裏に3人が残った。
「旗が上がらなかったそうだな」
アデライド様が口を開いた。
「はい」
「なぜだ」
「わかりません」
「わからないことが起きている。それだけはわかる」
言ってから、膝の剣をわずかに置き直した。置き直す必要のない場所へ。
「……お前の言ったことを、認めたわけではない。確かめに来ただけだ」
梯子を上がって梁に頭までぶつけておいて、確かめに来ただけ、と言う。
リュシー様が鉢に注いだものを差し出した。
アデライド様は受け取った。
小屋でも扉の外でも断った人が、今日は断らなかった。
両手で持って、膝の上に載せて、それきり動かさない。湯気が顔に当たっている。飲まない。
「冷めますよ」
「知っている」
「なぜ飲まないんですか」
「……飲んだら、話が終わる気がする」
私は口を閉じた。
この人の理屈はいつも私の予想と違うところから出てくる。
「記録を見たことがあるか」
「歴代の優勝者と、参加者の名簿だ。典礼省が管理している」
「ありません」
「私は見た。第30回の名簿を」
鉢の中で、湯気の勢いが落ちてきている。
誰も口をつけていない。3つとも。
「7年前だ。うちの姉が出た」
膝の上の鉢が、少しだけ傾いた。
「脱落した。東の門で書類にサインして、それきり家に帰らなかった」
喉が締まる。あの机だ。あのインク壺と、羽根ペンと、抑揚のない読み上げ。
私はあれを二度見ている。二度とも、止められなかった。
「除籍したのではない。姉が自分から家を捨てた」
「なぜです」
「知らん。聞く前にいなくなった」
「どんな方でしたか」
「……よく喋った」
「え」
「私と違って、よく喋る人だった。剣は下手だ。庭の花の名前を全部覚えていて、私に教えようとして、私が覚えないので怒っていた」
その話し方は剣の手入れの話をするときとまるで違った。声の高さは同じなのに間の取り方が違う。
花の名前を覚えなかった、という部分だけ、少し速かった。
「なぜ出られたんですか」
「うちが出せと言った。当時は、出ることが誉れだったからだ」
「いまは」
「……いまも、そういうことになっている」
アデライド様は鉢を見ている。中身ではなく、縁のあたりを。
縁を親指がなぞって、同じところを行き来している。
「私が名簿を見に行ったのは、その2年あとだ。父の書斎から典礼省の写しを持ち出した」
板の隙間から入る光が、アデライド様の膝のところで折れている。
鉢を持つ両手は、さっきから動いていない。
「32人の名前が並んでいた」
32。私が門をくぐった日と同じ数だ。
あの日の広場に、姉も立っていた。同じ数の中に。
「姉の名前が、ない」
板の隙間から入ってくる光の筋が少し動いた。日が傾いている。
「書き忘れ、ということは」
「返上した家名は、記録から消される。そういう決まりらしい。名簿からも、成績からも、全部」
「そんな」
「だから私は、姉が本当にあの場所にいたかどうかを、証明する手段を持っていない」
声の温度はいつもと変わらなかった。変わらないのがいちばんこたえる。
私は何と言えばいいのかわからなかった。
気の毒には違う。わかります、はもっと違う。私の母は記録から消えていない。消えていないから、私は父と母の話ができる。
持っている人間が持っていない人間に言える言葉を私は知らない。
「覚えている人は」
「家の者は覚えている。だが、覚えているというのは記録ではない」
その通りだった。返す言葉が見つからない。
覚えているだけのものは、忘れられたら終わる。
父の顔を思い出した。母の話をするときの、あの言い方。母はもういないけれど、うちの帳面には母の名前が残っている。祖母から母、母から私へ渡ってきたティーセットもある。レースは切ってしまったけれど、切ったという事実は私が覚えている。
覚えているものが私にはまだある。この人にはない。
「私が勝てば、記録に残るのはグレンヴィルの名だ。姉の名ではない。それでも、同じ家の名前ではある」
「……それで、あんなに。毎日、朝も昼も夜も」
アデライド様が少しだけ顔を上げた。
「剣を握っているあいだは、何も考えなくていい」
それは答えではなかった。答えではないほうが、たぶん本当のことだ。
リュシー様が私の背中に手を当てた。息が浅くなっていたらしい。この子は私より先に気づく。
「そちらの子」
「はい!」
「お前が淹れたのか」
「私です」
「腕は」
「まだです」
「そうか」
その一言で、リュシー様の背筋が伸びた。褒められたと思ったらしい。褒められてはいない。それでもこの人が返事をしたというだけで、この子には十分だったようだ。
アデライド様は膝の上の鉢を、少しだけ持ち上げた。持ち上げて、湯気を見て、また下ろす。
この人はきっと飲みたくないのではない。
鉢の中身はもう湯気を上げていない。
「残りは8杯です」
私は言った。
鉢の縁に、指が二本かかっている。剣を握るための硬い指が、素焼きの鉢を持っていた。似合わない。似合わないのに落としそうにない。
「なぜ数える」
「数えないと、なくなったときに気づけないので」
「尽きたら、どうする」
「葉っぱを煮ます」
「まずいのだろう」
「まずいです。ご存じでしたか」
「匂いでわかる。この庭のどこにいても、あの匂いだけは届いていた」
私は少し笑った。笑うと胸が痛むのですぐやめた。
生垣の向こうから、まずい匂いのする小屋の場所を知っていた。知っていて、一度も来なかった。
「あなた、負けたそうだな」
「ええ。みっともなく」
「どのくらい」
「剣を3回落としました。最後は自分の足の甲に」
しばらく、誰も何も言わなかった。
それから、アデライド様の肩が小さく揺れた。
揺れて、それが音になる。
低い、短い、慣れていない音だった。喉の奥に長いこと置き忘れていたものを、久しぶりに引っぱり出したみたいな。
笑っている。
あの夜、扉の向こうで聞こえた気がして、気のせいだと片づけた音だ。気のせいではなかった。
リュシー様が目を丸くしている。私もたぶん同じ顔をしていた。
そのときだ。
外で音がした。
生垣の葉が擦れる音。
風ではない。この庭に風は吹かない。硝子の中はいつでも同じ空気が同じ場所にある。
リュシー様が息を止めた。
アデライド様が鉢を置いて、剣に手をかける。狭い屋根裏で、その動きだけが迷いなく速い。
私は立ち上がろうとした。胸が跳ねて、途中で座り込む。
「動かないでください。ここにいてください」
「はい」
返事だけは速い。速いだけで、いまの私は何の役にも立たない。
板の隙間から外を覗いた。
生垣が揺れている。一箇所ではない。3箇所。
誰かが近づいてきている。それも一人や二人ではない。




