第18話 下手なお茶ほど熱い
朝、私はポットを持とうとして、落とした。
空のポットだ。水も入っていない。それでも持ち上げた瞬間に胸の右側が跳ねて、手が勝手に開いた。
床でいい音がした。
「セシリア様!」
「音がしただけです」
「割れてなくても、駄目です」
肋にひびが入ると腕が上がらない。正確には上がるのだけれど、上げた瞬間に息が止まる。息が止まると力が抜ける。力が抜けると落とす。
つまり私はもう淹れられない。
肋にひびが入っていると誰かが診てくれたわけではない。役人は来なかった。医者も来なかった。倒れて旗が上がらないということは、記録の上では私に何も起きていないということらしい。
何も起きていない人間は手当てもされない。
「私がやります」
リュシー様が言った。
聞き返す前に、この子はもう鉢を並べはじめている。
「あなた、火は入れられますけど。湯を沸かして、蒸らして、注ぐところは」
「……見ていました」
「ほかには」
「見ていました」
自信の根拠が見ていたこと以外にない。
まず、水を汲みに行った。この子が一人で。私は屋根裏の板の隙間から外を見ていた。
小さい背中が生垣に消えて、しばらくして戻ってくる。水差しを両手で抱えて、こぼさないようにゆっくり歩いている。それでも半分ほどこぼれていた。
「こぼれてます」
「知ってます」
「なぜこぼれるんですか」
「急ぐと、こぼれます。でも急がないと、セシリア様が心配するので」
黙るしかない。
結論から言うと、火の入れ方だけは完璧だった。
問題はそのあとだ。
この子は葉を入れすぎた。私が止める前に、両手ですくったぶんを全部まとめて放り込んだ。
「多いです」
「多いほうが濃いです」
「濃ければいいというものでは」
「濃いほうが、おいしいです」
理屈が力強い。
それから、蒸らしすぎた。
時間を数えないからだ。数える代わりに鍋へ鼻を近づけて匂いを嗅ぎ、しばらく考えて、また嗅ぐ。そうしているあいだ、葉はずっと湯の中にいる。
「いま、何を判断されました?」
「匂いです」
「どうなったら完成ですか」
「いい匂いです」
注ぐころには湯の色が黒に近づいていた。
注がれたものは湯気の量からしておかしかった。
ふつう、紅茶の湯気はまっすぐ上がって、途中でほどける。これはほどけない。太い柱になって、屋根の裏板まで届いている。
「熱いです」
「熱いほうがおいしいです」
「限度というものが」
私は口をつけた。
舌の先が一瞬で使い物にならなくなった。
声も出ない。息を吸うと痛いので、口を開けたまま空気を入れる。淑女の顔ではない。
「おいしいですか」
「……あついです」
「はい」
「あついです」
「2回おっしゃいました」
梯子を上がってくる音がした。
板の隙間から顔を出したのは、栗色の巻き毛だった。
「あら。生きていらっしゃる」
「ミレイユ様」
「旗が上がりませんでしたでしょう。ですから、生きていらっしゃるのだろうと」
「なぜここへ」
「あなたのところは、数字がよく動きますの」
「ここで何が?」
「あなたの単勝が、55倍から18倍になりましたわ」
持ち上げかけた鉢が、口の手前で行き場をなくした。
55から18。倍率が下がるのは生きているあいだだけだと、私は思っていた。
「……負けたのに?」
「旗が上がらなかったからですわ。おかしいでしょう。おかしいものには、みなさま張りたがりますの」
この子は屋根裏の低い天井に頭をぶつけて、それからちゃんと背筋を伸ばして座った。
この姿勢の悪い場所で、姿勢だけは崩さない。ぶつけたぶんの埃が、梁のあいだから落ちてきた。
「ねえ、セシリア様」
埃の筋が、この人の巻き毛のところで乱れる。
「なぜ旗が上がらないか、お考えになりまして?」
「わかりません」
「わたくしも考えましたわ」
「答えは」
「ございますけれど、申し上げませんの」
「なぜです」
「まだ売り物になりますもの」
腹は立たない。腹が立たないくらい一貫している。
売り物になるあいだは売り、ならなくなったら渡す。この庭で最後まで筋が通っているのは、この子の商売のほうだった。
「ミレイユ様、お茶はいかがですか」
「結構ですわ」
「リュシー様がお淹れになりました」
「……ひとくちだけ」
この人はリュシー様には弱いらしい。
ミレイユ・デュノワは、この庭で初めて、私の淹れていないお茶を飲んだ。
飲んで動きが止まった。
「……」
「ミレイユ様?」
「……熱いですわね」
「はい」
「舌が」
言葉が続かない。胴元が言葉に詰まっている。
「勘定が、できませんわ」
胴元が舌を火傷して、数字を数えられなくなっている。
私は笑った。笑ったら胸が痛んで、痛いのにまた笑って、リュシー様に本気で怒られた。
リュシー様が下へ降りていった。
しばらくして、上がってくる音がする。何かを抱えているらしく、梯子の鳴り方がいつもと違う。
「これ」
「何ですか」
「並木の、木の根元にありました。オルタンス様の荷物です」
布の袋だ。口が紐で縛ってある。
開けた。
紅茶が入っていた。
乾いた葉。黒くて、細くて、指でつまむと少し折れる。あの匂いがする。
「……これ」
「セシリア様の、ですよね」
袋の口を閉じて、また開けた。中身は変わらない。
あの人は中身を移せと言われた。移した。
移して、元のぶんを捨てなかった。
捨てずに袋へ入れて、自分の荷物と一緒に置いていた。
なぜ、と考えかけて、やめた。あの人はもういない。聞けないことを考えても答えは出てこない。
袋の中を覗いて、量を測る。
12杯ぶんくらいだ。
40杯あったものが盗まれて、毒を仕込まれ、役人に持っていかれた。それでも12杯だけ帰ってきている。指を折って数え直しても、やはり12杯だった。
「オルタンス様、並木で配って回っていたそうですわ」
ミレイユ様が言った。
「配る」
「お茶を淹れて、通りかかった方に。何人も飲まされたと聞いておりますわ」
缶を取られた日には21杯あった。残りがそれより減っている理由が、それでわかる。
あの人は最後まで、誰かに何かを出す側でいようとしていた。出したものが何だったのかも知らないまま。
「淹れてください」
「私がですか」
「あなたしかいません」
リュシー様が袋の口を両手で持った。持ったまま、動かない。
「どうしました」
「……失敗したら」
「失敗します」
「え」
「あなたは絶対に失敗します。ですから、安心して失敗してください」
この子はしばらく私を見て、それから、さじを取った。
湯が沸くまで6分。
その6分のあいだ、誰も喋らなかった。喋らなかったのは、今度は重いからではない。
鉢は小さいのを選んだ。濃すぎるものを大きな器で出されると、飲みきれない側が困る。この工夫だけは私が口を出した。
注がれた紅茶は濃すぎた。濃すぎて、熱すぎた。
それでも匂いだけは本物だった。
屋根裏の空気が塗り替わっていく。埃と麻袋と乾いた藁の上から、あの匂いが降りてくる。缶を取られた日から、ずっと嗅いでいなかったもの。
鉢を両手で持つ。両手なら持てる。片手だと胸が痛むけれど、両手で支えれば口まで運べる。
ひとくち。
濃い。渋みが舌の奥を引っかいて、そのあとに遅れて甘みが来る。この庭に着いた日、自分のために淹れたときと同じ順番だ。
あのときの私は2分を超えたことを喜んでいた。
「セシリア様、目が」
「泣いていません。舌が痛いだけです」
「私もです」
「あなたのせいです」
言い返さない。言い返さないまま、鉢をもう一度口へ運んでいる。
「……おいしい」
言ったのはミレイユ様だった。
「あら」
自分でも驚いた顔をしている。
「勘定に感情が混ざりましたわね」
「入っておりません」
「……舌が火傷しているだけですの」
言い訳の下手さだけは、この庭でいちばんだと思う。
この人は鉢の縁を指で拭って、指先を見て、それから諦めたように息を吐いた。
3人で飲んだ。3人とも舌を火傷した。
そのときだった。
梯子が鳴った。
誰かが上がってくる。ミレイユ様の上がり方とは違う。重い。一段ずつ、ゆっくり。
板の隙間から、まず色が見えた。
黒だ。飾りのない黒。
この庭でまだ一度も私のお茶を飲んでいない人が、屋根裏へ上がってくる。




