第25話 目覚めし漆黒の厄災。ただし名付け親は私ですが
平和というものは、得てして薄氷の上に成り立っているものだ。
特に、このヴェルナの街において、私の平穏な隠居生活は、常に致死量の甘さと重さを伴った『光』によってじわじわと浸食されていた。
「チェリさん、おはようございます。今朝は冷えますね。新作のハーブティーと、特製のキッシュを焼いてきました。もちろん、貴女の分だけです。僕は見ているだけ」
薬屋のカウンターで開店準備をしていた私の前に、太陽のように眩しい笑顔が咲いた。
完璧な形に焼き上げられたキッシュからは、ベーコンとほうれん草の食欲をそそる香りが漂っている。
エプロン姿ではなく、パリッとした騎士団支部長の制服を着こなしているというのに、彼が持つバスケットからは恐ろしいほどの家庭的なオーラが放たれていた。
「あ、ありがとう、アレクシオン様。でも、毎日こんなに差し入れしてもらったら、私、本当に太っちゃうわ」
「太るだなんて、とんでもない。チェリさんはもう少しお肉をつけた方が健康的で魅力的で可愛らしいですよ。それに、貴女の胃袋を満たすのは僕の特権ですから」
爽やかな顔で、とんでもなく重たい独占欲を口にする男である。
最近のアレクシオン様は、外堀を埋めるスピードが尋常ではない。
「準備ができたら」と言っていたくせに、実態は日々の餌付けと過剰な手伝いによる、完全な包囲網の構築だ。
何を隠そう、私はおやつをくれる人間には弱い。
「そういえば、昨日お店の裏路地をうろついていたガラの悪い連中、綺麗にいなくなってたわね。もしかして騎士団でパトロールでも強化してくれたの?」
「ああ、彼らですか」
アレクシオン様は、ハーブティーをカップに注ぎながら、ふふっと微笑んだ。
春の陽だまりのように温かく、慈愛に満ちた、一見すれば聖人のような笑顔。
大抵のご婦人はこの笑顔にコロッと騙されてしまう。
「ええ。チェリさんの神聖な職場を汚す害虫がいたので、二度とこの通りを歩く気すら起きないように、少しばかり膝を交えて『道』を説いておきました」
「……道を説くってどういうこと?」
「はい。人間の関節は、本来あるべき方向とは逆に曲がると、とても素直になる生き物だと彼らも学んでくれたようです。もう安心ですよ、チェリさん。貴女の視界に、不快なゴミは一切映させませんから」
「…………」
笑顔が怖い。
光属性のヤンデレが物理的に排除活動をしている。
「ありがとう」と言うべきか、「やりすぎだ」とツッコむべきか迷い、私はとりあえず出されたキッシュを無言で口に運んだ。
……悔しいけれど、絶品である。
私の胃袋は完全に彼の手中に捕まりつつあった。
このままではうっかり、文字通り手取り足取り、一生面倒を見られるという名の監禁生活に突入してしまう。
私がキッシュの美味しさと、暗澹たる未来予想図に挟まれて呻いていると、その平穏は、唐突な轟音によって打ち破られた。
本当にこういう展開が多いよね。この街。
――カンッ! カンッ! カンッ! カンッ!
街の空気を切り裂くように、けたたましい警鐘が鳴り響いた。
それは、魔物の大規模な襲撃や、緊急事態を知らせる一番重い音色だ。
窓の外を見ると、通りを歩いていた人々が足を止め、不安げにざわめき始めている。
「な、何事!?」
「チェリさん、こちらへ!」
アレクシオン様は即座にカップを置き、私の手首をガシッと掴んだ。
その瞬間、彼から放たれる空気が一変した。優しくて重たい好青年から、冷徹で研ぎ澄まされた刃のような『騎士団支部長』の顔へ。
私の手を握るその力強さには、守りますではなく、逃がさないと宣言されているような錯覚を覚える。
「支部長!!」
そこに、息を切らせた若い騎士が店に飛び込んできた。
「報告します! 西の禁足地にて、王立考古学調査班が誤って『古代の防衛兵器』と思われるものを起動させてしまったとのこと! それが現在、街に向かって一直線に進軍してきています!!」
「古代の防衛兵器だと? 調査班は何を血迷ったんだ!」
アレクシオン様の声が鋭く響く。
西の禁足地。
その言葉を聞いた瞬間、私の背筋に、警鐘とは全く別の嫌な汗が伝った。
西の禁足地って、先日クラーリスが『魔王ヴェリタスの秘密の書庫が発掘された』って言ってた、あそこじゃないの!?
「被害状況は!」
「現在のところ、死傷者は出ていませんが、兵器の巨大さと放つ魔力が尋常ではなく……! 街の防壁など、砂利のように破られると予測されます!」
ズズン……ッ。
若い騎士の言葉を裏付けるように、大地が低く揺れた。
遠くから、何か途方もなく巨大なものが歩みを進めてくる振動が伝わってくる。
街の人々の悲鳴が上がり始め、平和だった通りは一瞬にしてパニックに陥った。
「チェリさん、怖がらないでください。僕が、必ず貴女を守ります」
アレクシオン様は私を背後に庇うように立ち、私は彼に引かれるまま店の外に出た。
ドナドナされる子牛の気分である。
西の空を見上げた瞬間――私は、自分の目を疑った。
ずンッ……! むンッ……!
ずンッ……! むンッ……!
地響きと共に土煙を上げて姿を現したのは、山のように巨大な『骨竜』だった。
しかも変な掛け声付き。
ただの骨ではない。
全身から暗黒物質っぽい漆黒のオーラを噴き出し、背中には空気抵抗など一切無視した、無駄にトゲトゲしいアシンメトリーな装甲翼。
眼窩には見覚えのあり過ぎる邪眼ぽい深紅の炎が燃え盛っている。
おまけに、関節部分には意味もなくジャラジャラと鎖が巻き付いていた。
「なっ……あれは……!」
アレクシオン様が息を呑む。
「なんて禍々しい姿だ。邪悪な魔力の奔流を感じる。あれこそが、世界を滅ぼさんとした古代の厄災……!」
(ちっがーう!!)
私は心の中で、魂の底から絶叫した。
あれは、三百年前、魔王だった私が深夜のテンションで『うわ、こういう厨二全開のデザイン、めちゃくちゃカッコいいじゃん!』という理由だけで作り上げた、最高に恥ずかしい趣味の産物だ!!
名前だってそうだ。
あれは確か――。
(『暗黒殲滅機巧巨兵』じゃないのよおおおおお! なんであんなの掘り起こして起動させてんのよ王立考古学調査班!)
私は両手で顔を覆い、その場にしゃがみ込みたくなった。
「もし勇者が攻めてきたら、これ出したらめっちゃ盛り上がるでしょ」と思って作ったものの、冷静になって翌朝改めて見ると「さすがにデザインが痛すぎる」と気づいて、誰の目にも触れないよう地中深くに物理封印した、黒歴史の集大成である。
「チェリさん? 大丈夫ですか、顔面が蒼白ですよ。怖がらなくていい、僕がいます」
アレクシオン様が私を案じて抱き寄せてくるが、私の震えの理由は恐怖ではない。致死量の羞恥心だ。
大丈夫。
落ち着くのだ、私。
私は元魔王。
伊達に三百年前、世界を恐怖で支配したわけじゃない。
あんな骨のガラクタ、私の『拳』に魔力を一点集中させて殴れば、一撃で粉砕できる。被害が出る前に、目にも止まらぬ速さで飛び込んでワンパンすれば――。
そう思って指を鳴らし、立ち上がろうとした私の耳に、骨竜からの不気味な機械音が届いた。
『――ピピピ。マスター・ヴェリタスノ、魔力波形ヲ検知。対象ヘ向ケテ、直進シマス』
ギョロリ、と。
骨竜の深紅の眼光が、街の群衆の中にいる『私』をピンポイントで捉えた。
「えっ」
骨竜は、他の建物や逃げ惑う人々には目もくれず、私に向かって一直線に進路を変えた。
そうだ。思い出した。
あれ、主人の魔力に反応して、「自動でご主人様の元に駆けつける忠犬機能」を搭載してたんだった。
つまり、私がここで下手に強大な力を解放すればするほど、あいつは「あ! ご主人様だ!」と喜んで飛んでくるし、最悪の場合、街のど真ん中で「マスター・ヴェリタス!」と大音声で私の正体を暴露しかねない。
「チェリさん……! 成程、標的は、僕たちですか! いいでしょう、貴女に指一本触れさせはしない!」
アレクシオン様が聖剣の柄に手をかけ、恐ろしいほどの殺気を放ち始める。
マズい。非常にマズい。
このままでは街が壊されるか、私の正体がバレるか、あるいはアレクシオン様が暴走するかの三択だ。
そして何より、あいつを「魔力を使わずに」完全に止めるための『強制停止パスワード』を、私は思い出しつつあった。
それは、私の社会的な尊厳を完全に殺す、最強最悪の封印解除キー。
「う、嘘でしょ……勘弁してよ……」
迫り来る漆黒の黒歴史を前に、私は今度こそ、本当に絶望の淵へと立たされていた。




