第20話 禁呪遺物と観測者 後編
――その頃、いかなる羽も届かぬ遠き場所。
白くて広くて無駄に天井が高い部屋があった。
円卓の周囲に座るのは、観測者と呼ばれる存在たち。
彼らは星の運行を監視し、理の歪みを記録し、そして往々にして、決定的な局面で盛大な見当違いをする、人間の上位存在である。
つまり神という名の、暇人である。
「――では、定例の審議を開始しよう」
議長と思しき男が、悠久の時を煮詰めたような重々しさで唇を開いた。
「第一議題。南方大陸、港湾都市における異常な魔素の変動……および、それに伴う健康状態の劇的な改善について」
揃いの法衣を纏った一同が、さらりと紙片をめくる。
「患者数三十二名」
「死亡者ゼロ」
「原因不明」
「対処の項目には、『自然回復』とありますが」
「それを審議している。ただの自然回復で、これほど清冽な治癒波形が出るものか?」
「……『腹巻き』が、布になったとあります」
「布?」
「はい。昨日まで呻いていたそうですが」
「呻く布か……」
壮麗な会議室が、微妙に沈黙した。
「……誰か、過去の事象に照らし合わせる者はいないか?」
末席に座る若い観測者が、迷いながらも、細い指を挙げた。
「三百年前の……大戦期の記録に、酷似した魔力波形が。作成者は、確か――」
「三百年前だと!? そんな骨董品を持ち出すな」
「測定器が木製だった時代の記録など、誤差の塊だ」
「今の環境下で再現されるはずもない」
嘲笑が混じり、若者の意見は霧散する。
「結論を急ごう」
議長は厳かに咳払いをし、空間に輝く文字を刻んだ。
――生活習慣の改善による、生命力の自浄作用。
「これらの記録から鑑みるに、町を挙げての健康ブームが到来したのだろう。実際、腹を温めるのは養生の基本だ」
「確かに。腸内環境こそが世界の縮図ですからな」
「腹巻きを巻いていましたし」
「確かに、腹は冷やさない方がいい」
一同、深く、深く、深淵を覗き込むような眼差しで頷き合った。
「よし。異常値は環境誤差として処理する。……次は、特異個体についてだ。対象、チェリ・ローゼンフェルト。関与の可能性は?」
資料が円卓をぐるぐると回っていく。
「年齢:花の盛り」
「職業:薬屋の雇われ店員」
「趣味:料理、惰眠」
「特記事項:異常なまでの健康運(住民の噂より)」
「交友関係:騎士団支部長と良い感じ」
「健康運……」
「腹巻きとの相性が、奇跡的に合致したのかもしれませんな」
「魔力反応は?」
「微弱。測定不能なほどに」
真理はあっさりと、塵のように掃き出された。
議長は重々しくハンマーを振り下ろす。
「――観測不要案件とする」
かあん、と。無知を祝福するような鐘の音が響いた。
「次の議題。昨日の空が、統計学上ありえないほど青かった件について」
「議長!……それは、単なる快晴という現象では?」
「そうだな」
会議は滞りなく、無意味な高みへと進行していく。
――なお。
その片隅で、一人の観測者が、閉じた資料の裏表紙をなぞっていた。
そこには、三百年前に失われたはずの文字列が記されている。
『万象最適化補助装置(試作)』
『作成者:魔王ヴェリタス』
彼女は、そっと資料を閉じた。
「……似てる気もするけど、まさかね」
禁呪遺物が、腹巻き扱いされてるわけがない。
過去に世界の均衡を傾かせた魔王が、「健康運が良い一般市民」として暮らしているはずがない。
「それに、『騎士団支部長と良い感じ』って……」
彼女は、誰にも聞こえない声で独りごちた。
「可愛いじゃない。そんなの、放っておいてあげるべきだわ」
★
翌日。
私とアレクシオン様は、約束通り市場へと足を運んでいた。
降り注ぐ陽光は、昨日の私の心を襲った恐慌を洗い流したように眩しい。
「チェリさん、これ。今日のスープに良さそうですよ」
「じゃあ、少し多めに買っておこうかな」
並んで歩く私たちの背中に、昨日よりも密度の濃い視線が刺さる。
それは、セバスティアンが浮かべていたような、慈しみと好奇心が混ざり合った、無駄に温かすぎる眼差しだった。
「あらあら、お似合いねぇ」
「騎士団の若様と、薬屋の聖女様かい!」
やめて。見ないで。
私はただ、健康運が少し良いだけの自称一般市民なのだ。
助けを求めるように隣の男を見上げると、アレクシオン様は少しだけ困ったように、けれどどこか嬉しそうに頬を掻いていた。
「案外、街の人たちは本質を見抜いているのかもしれませんね」
アレクシオン様が、悪戯っぽく、けれどどこか熱を帯びた声で呟いた。
反射した日差しが眩しくて、彼の表情を正確に読み取ることができない。
「何を……っ、アレクシオン様まで揶揄わないでください」
「揶揄ってなどいませんよ。僕にとっては、あながち間違いでもない。……貴女は確かに、多くのものを『救って』いますから」
彼は歩みを止め、私の手元に下がっていた重い買い物袋に、迷いのない所作で手を添えた。
指先が微かに触れる。
ただそれだけのことなのに、心臓が不自然なリズムを刻み始める。
「あ、自分で持てます。私、けっこう腕力ある方なので」
「騎士を隣に立たせておいて、それは無理な相談です、チェリさん」
袋を引き取る彼の指が、滑るように私の手に触れた。
そのまま奪うようにして荷物を持った彼は、何食わぬ顔で歩き出す。
「……アレクシオン様」
「なんですか」
「そんな風に、誰にでも親切なんですか?」
彼は一瞬だけ足を止め、困ったように眉を下げて笑った。
その眼差しは、春の陽だまりよりもずっと暖かく、残酷なほどに誠実で、逃げ道を塞ぐように重たかった。
「誰にでも、なんて……この剣も、この手も、そう安売りはしていないつもりですよ」
「…………」
「貴女だから、そうしたいと思っているんです。……届いていませんか?」
真っ直ぐに向けられた言葉の鋭さに、私は息を呑む。
それは一歩手前で踏みとどまっているような、危うい均衡。
だがしかし、彼はそれ以上強引に踏み込んでこない。
私が逃げ出さないように、慎重に、けれど確実に、甘い檻で外堀を埋めていく。
「……届いてますけど……」
私は俯き、表情を隠すように歩幅を早めた。
背後から、彼の小さく弾むような笑い声が聞こえる。
「それは良かった。では、次はあちらの果実店へ行きましょうか。僕の聖女様」
「その呼び方は禁止です!」
振り返って抗議する私に、彼はただ、意味ありげに目を細め、あろうことか口パクで『ま・お・う』と言ったのだ。
――こうして。
世界は今日も決定的な真実を取りこぼしたまま、あまりにも正しく平和だった。
逃げ場のない包囲網だけが、確実に進行していることを除いて。




