第2話 法則を捻じ曲げる支配者
か弱き乙女として、誰にも知られず、静かに隠居したい。
それだけが私の、たった一つの、慎ましやかな願いだった。
なのに、どうして私は今、港全体を戦慄させて、住民をパニックに陥れているのかしら。
……人生って、本当にままならないわね。
「魔力を持たぬ者は、我が家門の面汚しめ……廃棄だ」
後見人だった大叔父様の、あのゴミを見るような冷たい声。
両親を失った私を引き取ったのは、単に、高く売れそうな政略結婚の駒になるか試したかっただけ。
結果、魔力測定で計測不能――つまり、測定器すら動かせない無能だと判定され、私はあの絶望の孤島へ放り出された。
「……ふん。愚かな人間たちね。私の真の力の一端すら理解できないなんて……。ククク、深淵の闇を知らぬ光の仔らよ、その無知こそが最大の罪――って、いけない!!」
私は慌てて、自分の両頬をパシパシと叩いた。
危ない、危なすぎる。
ちょっとムカついただけで、前世の魔王ヴェリタスの人格が、恥ずかしいポエムと一緒に表に出てきそうになった。
あんな堅苦しい公爵家に戻って、また「背筋が1ミリ曲がっておりますわよ」なんて嫌味を言われる日々を考えたら、つい口走ってしまったけれど。
今の私はチェリ。
か弱くて、身寄りがなくて、お腹が空いたらかわいく鳴いちゃう捨てられた子犬系の哀れな追放令嬢。
……うん、この設定で行こう。
完全に私の圧で制御された海竜は、文句ひとつ言わずに波を切り進んでいる。
海竜の背中に、魔力で無理やり構造を変えて作った即席テラスは、意外なほど快適だった。
目指すは、南方大陸の巨大帝国カイエンにある港町、ヴェルナ。
あそこなら、国が大きすぎて私一人が紛れ込んでも目立たないはず。
のんびり穏やかな隠居暮らし。
日当たりの良い庭で、お昼寝。
たまに、街の美味しいお菓子を食べる。
……最高。
「あ、そろそろ街が見えてきたわね。……あれ?」
港の方から、カンカンカンカン!! という、心臓に悪い激しい鐘の音が聞こえてくる。
見れば、港の守備兵たちが慌てて大砲の準備を始め、住民たちが「ぎゃー!」とか「助けてー!」とか叫びながら逃げ惑っている。
「……不思議ね。ヴェルナでは、港に客が来ると大砲でお祝いする風習でもあるのかしら?」
私が首を傾げると、足元の海竜が「グルルゥ……」と申し訳なさそうに喉を鳴らした。
あ。そっか。
私が今乗っているの、世界を滅ぼすレベルの超大型海竜だったわ。忘れてた。
「撃てぇぇ!! あ、あれは超災厄級の海竜だ! 街を守れ!!」
港から発射された砲弾が、ヒュルヒュルと風を切ってこちらへ飛んでくる。
「きゃっ、怖い! やめて!」
私は反射的に「絶対防壁」を展開しようとして――慌てて指を止めた。
いけない。
そんな、空間を歪めるような派手な魔法を使ったら、か弱き乙女の設定が粉々になってしまう。
もっと地味に。
目立たず。
「えいっ」
私は人差し指をちょいっと立てて、飛んできた砲弾の進路上にある空気を、魔力でほんの少しだけ硬くした。
重力操作?
そんな難しいことじゃない。
ただ、砲弾の横っ面を、見えないデコピンで弾いただけ。
物理法則を無視して九十度真横に曲げられた砲弾は、遥か彼方の沖合でドォォォォンと巨大な水柱を上げた。
港が、水を打ったように静まり返る。
……やってしまった。
でも大丈夫、かなり距離があるから、向こうからは見えていないはず。
ここは、奇跡的に砲弾が風に流されたということにして、涙目で乗り切ればいいわ。
私は海竜に命じて、港の桟橋へ、優雅に、かつ繊細に横付けさせた。
数十メートルの巨体が接岸する衝撃で、桟橋の端っこがガリガリっと景気よく砕けたけれど、そんなのは誤差の範囲内。
私は、か弱い演技を全開にして、海竜の背中からおずおずと滑り落ちた。
そして、顔面を真っ白にして固まっている、指揮官らしき男性の前に歩み寄る。
「あ、あの……すみません。私、国を追放されてしまって……。乗る船もなくて困っていたら、この子がたまたま通りかかったので、背中に乗せてもらったんです……」
上目遣いで、瞳に涙を浮かべる。
完璧。これぞ悲劇のヒロイン。
私は、迫害された異国の令嬢。
海の王者が、そのあまりの不憫さに同情して、ちょっと辻馬車代わりになってくれただけ。
……という設定。
指揮官の男の顔色は、白を通り越して透明になりかけていた。
「た、たまたま通りかかった、超災厄級を……手懐けた、だと……?」
「いえ、手懐けたなんて! ただちょっとお願いしただけで! 悪い大叔父様から逃げて、どこか遠くに……私のことを誰も知らない場所に……」
私が項垂れて首を振ると、後ろの若い兵士が、立ったまま白目を向いて気絶した。
何がそんなにショックだったのかしら。
「き、貴様は何者だ!? そのような魔獣を従えるとは、ただの人間ではあるまい!」
周囲から一斉に槍が向けられ、私はほんの少しだけイライラした。
せっかく平穏を求めてやってきたのに、どうしてこうも騒がしいのか。
昔の私なら、この程度の無礼、街ごと灰にしてから「あ、ごめん、ちょっと手が滑った」で済ませていたところだ。
その苛立ちが、記憶の封印を、一瞬だけ緩めてしまった。
「フフフ……愚かな……我が正体を知りたいか……?」
いけない。スイッチが入った。
口が、私の意志を無視して、勝手に動き出す。
脳内の中二病フォルダが勝手に解凍されていく!
「我こそは、永劫の闇より顕現せし者……世界の法則を捻じ曲げる支配者……!」
背後から、無意識に漏れ出た漆黒の魔力がゆらりと立ち昇る。
兵士たちが「ひぃっ!」とか「神よ!」とか叫びながら腰を抜かしていく。
ちょ、待って! 何を言ってるの私!?
支配者!?
恥ずかしい!
何が法則よ!
学者先生に謝ってきなさいよ!
私ははっと我に返り、必死に言葉を付け足した。
「……世界の法則を捻じ曲げる支配者……に、追われて逃げてきた、ただのか弱い女の子です!!」
……。
潮風だけが、気まずい沈黙を運んでくる。
指揮官の男が、引きつった笑みを浮かべて聞いてきた。
「……そ、その……支配者、とやらに追われて、海竜に乗って逃げてきた……と?」
「は、はい! そうなんです! この子はぁ、その……えっと、道端で出会った親切な野良の海竜さんです! お友達なんです!」
私は海竜の頭をバシバシと叩いた。
空気を読んだ海竜は、巨体に似合わない「くぅぅん……」という子犬のような鳴き声を上げた。
……こいつ、下僕適正ある。
今度美味しい魚をあげよう。
「……そうか。理解した」
指揮官は、震える手で槍を収め、部下たちに向き直った。
「全員、礼ッ!! こちらの御方は、伝説の魔獣すら『親切な野良』と呼び、従わせるほどの超高位魔術師様だ! おそらく、東の魔法大陸にある、大国の姫君が正体を隠して来られたに違いない!」
「えっ」
「失礼いたしました、偉大なる姫君様! このヴェルナの街は、貴女様のような強大な力をお持ちの御方を、心より歓迎いたします! さあ、街で一番高い宿屋へご案内しろ! 費用は領主が持つ! たぶん!」
「いえ、あの、私は一文無しの無能で、ボロボロのおんぼろ令嬢で……」
「ご謙遜を! 海竜を乗り回す方が無能なはずがございません! さあさあ、どうぞこちらへ!」
兵士たちがサッと道を開け、集まってきた住民たちが一斉に地面に膝をつく。
やめて。
この光景、心当たりがありすぎる。
まるっきり魔王軍の凱旋パレードじゃない。
「……どうして、こうなるの……」
私は豪華な馬車に押し込まれながら、虚ろな目で遠くを見つめた。
穏やかな隠居生活。
目立たず、静かに、誰にも干渉されない夢。
それが音を立てて崩れ去る音が、割と近くで聞こえてくる。
港に残された海竜が、どこか「どんまい」と言いたげな瞳で私を見送っていた。
馬車の中で、私は顔を覆う。
三百年前の黒歴史が引き起こした、あまりにも重すぎる誤算。
平穏への道程は、最初の一歩で、すでに崖っぷちまで追い込まれていた。




