第16話 無能令嬢チェリの追放
前世の記憶を取り戻す前。
私は本当に、自分は世界で一番無価値な存在だと信じていた。
十七歳の私は、痩せ細った体をさらに小さく折り畳むようにして、広大な屋敷の片隅に佇んでいた。
アンブロシア公爵家。
両親を事故で亡くした私を引き取ってくれた、父方の遠縁である大叔父の家だ。
豪華絢爛な装飾も、磨き上げられた床も、私にとっては冷たい箱庭でしかなかった。
「チェリ」
背後から降ってきた声の冷たさに、肩が跳ねる。
振り返ると、アンブロシア公爵が立っていた。
白髪に刻まれた皺の一本一本までが威厳に満ちているが、私を見るその瞳だけは、氷河のように絶対零度だ。
「は、はい、大叔父様」
私は反射的に頭を垂れた。
「今日の魔力測定の結果だ」
公爵が投げ捨てるように差し出した一枚の紙。
そこに記された文字は、見飽きた絶望。
――測定不能。
それは、私の存在価値がゼロであることを証明する烙印。
公爵の深いため息が、ナイフのように胸を抉る。
「申し訳ございません……」
「申し訳ない、で済む問題ではない」
吐き捨てるような言葉。
「お前は、腐ってもアンブロシアの血縁であるローゼンフェルトの娘なのだぞ。それが魔力値皆無とは……一族の面汚しにも程がある」
私は唇を噛み締め、ただ沈黙を守るしかなかった。
何を言っても、言葉はすべて刃となって自分に返ってくることを知っていたから。
夕食の時間、私は長いテーブルの末席に座っていた。
そこは、家族の温かい団欒からは一番遠い場所。
向こう側では、従姉妹のロザリンドとカタリナが、銀のフォークを優雅に操りながら談笑している。
二人とも、優秀な魔力を持つ、公爵家の自慢の令嬢だ。
「ねーえ、チェリ」
ロザリンドが、甘い毒を含んだ声で呼びかけてきた。
「今日も測定器、反応しなかったんですって?」
「……はい」
「あらあら、可哀想に。壊れているんじゃない? 貴女の頭の方が」
カタリナが、上品な手つきで口元を隠して笑う。
「やめてあげなさいお姉様。無能なのはチェリのせいじゃないわ。そういう血筋なだけよ」
「そうね。よくアンブロシア家の血を引いているなんて言えるわ。私なら恥ずかしくて死んでしまうけれど」
クスクスという嘲笑が、食器の触れ合う音に混じる。
私は皿の上の冷めたスープを見つめたまま、何も言い返せなかった。
反論する言葉なんて持っていなかった。
だって、彼女たちの言う通りだから。
魔力を持たない私は、この世界では欠陥品なのだから。
食事を終え、逃げるように厨房の片隅へ戻る廊下。
すれ違う使用人たちの視線もまた、私を傷つける針だった。
「あ、チェリ様……」
彼らは私を見ると、気まずそうに目を逸らす。
無能というレッテルが貼られてからは、私は腫れ物扱いだ。
「チェリ様の部屋の清掃、週一でいいって執事長が」
「ああ、公爵様が、あの子に割く人件費が惜しいって……」
「今は厨房の片隅で寝起きされてるぞ」
背後で交わされる囁き声。
私は耳を塞ぎたくなるのを堪え、足を速めた。
与えられた部屋は、屋根裏にある小部屋。
家具はすべて、誰かのお古か、壊れかけたものばかり。
そこさえも追い出され、厨房片隅にあるパントリーの隣の小さな空間で、今では寝起きしている。
軋むベッドに倒れ込むと、埃の匂いがした。
「私……生きてる意味、あるのかな」
天井の染みを見つめながら呟く。
誰にも期待されず、誰にも愛されず、ただ無能と罵られながら息をするだけの毎日。
涙すら枯れ果てた瞳は、乾いたままだった。
「チェリ様!」
窓の外から、しわがれた声がした。
驚いて顔を上げると、庭師のジョージが下から手を振っていた。
「ジョージおじいさん……」
私は窓を開けた。冷たい夜風が入ってくる。
「こんな時間に、どうしたの?」
「月下香が咲きましたよ。見に来ませんか?」
ジョージの誘いに、私は迷いながらも頷く。
こっそりと裏庭へ降りる。
庭の隅、誰からも見向きもされない小さな花壇。
そこには、月の光を浴びて白く輝く花が咲き乱れていた。
「綺麗……」
「ええ。チェリ様が先月、種を蒔いた花ですよ」
ジョージは、花を見るような優しい目で私を見た。
「覚えていらっしゃいますか?」
「……うん」
土に触れている時だけは、自分が無能であることを忘れられた。
私が植えた種が、芽を出し、こんなにも美しい花を咲かせてくれた。
「チェリ様は、無能なんかじゃありませんよ」
ジョージの太く、土で汚れた手が、私の肩に置かれた。
「魔力がなくても、貴女には花を慈しむ優しい心がある。それは、どんな強大な魔法よりも尊いものです」
「でも……この家ではこの国では、魔力が全てだから」
「家なんて小さな箱庭です。世界はもっと広い」
ジョージは微笑んだ。
「貴女は、いつかきっと幸せになれます」
その言葉だけが、凍りついた私の心を、ほんの少しだけ溶かしてくれた。
涙が溢れた。温かい涙だった。
★
その僅かな希望すら、粉々に砕かれる日が来た。
公爵の執務室に呼び出された私を待っていたのは、見知らぬ美貌の青年だった。
豪奢な衣装。
傲慢な瞳。
「チェリ、こちらはアロルド侯爵家の次男ロレンス様だ」
私は慌てて挨拶するために膝を折る。
足が震えた。
青年は、私を品定めするように頭から爪先まで眺め、鼻で笑った。
「例の、ですか」
「魔力は皆無だが、血統は……」
公爵がどこか媚びるように説明するも、ロレンス様は不快そうに顔をしかめた。
「いや、やはり無理でしょう。父が許すはずもない。魔力無しの無能など」
吐き捨てられた言葉。
それは、私の存在の全否定だった。
「婚約の話はなかったことに」
「お、お待ちを!」
青年は振り返りもせず部屋を出て行った。
残されたのは、静寂と、公爵の煮えたぎるような怒りだけ。
公爵が、私を睨みつけた。
「……申し訳ございません」
「謝るな! その顔を見るだけで虫唾が走る!」
公爵は汚いものを見る目で私を見下ろした。
「もういい。お前を置いておく理由は消滅した。追放だ」
「え……」
「流刑地へ送る。明日、夜明けとともに出発しろ」
私は、反論することさえできなかった。
最後の夜。
私は小さな鞄に、数少ない自分の持ち物を詰めていた。
色褪せたドレス。
亡き父母のロケット。
コンコン、と控えめなノックの音がした。
ドアを開けると、ジョージが立っていた。
「ジョージおじいさん……」
「聞きました……お発ちになるそうですね」
ジョージは悲しげに眉を下げ、小さな布袋を差し出した。
「これを」
「これは?」
「花の種です。あの月下香の」
私はその袋を受け取った。
微かに、土の香りがする。
「どこへ行っても、花を育ててください。花は裏切りません。貴女の心を、きっと守ってくれます」
「ジョージおじいさん……ありがとう」
私は袋を胸に抱きしめた。
「チェリ様、どうか忘れないでください」
ジョージは、真剣な眼差しで私を見つめた。
「貴女は無能なんかじゃない。いつか、貴女だけの花を咲かせる日が必ず来ます」
私は頷いた。
もちろん、心の中ではそんな言葉信じられない。
枯れ果てた私に、花なんて咲かせられるのだろうか、と。
見送りに出てきたのは、使用人たちだけ。
大叔父も、従姉妹たちも、姿すら見せなかった。
馬車が動き出す。
遠ざかる屋敷。
私の青春のすべてが詰まった、灰色の箱庭。
辛かった。苦しかった。ここが私のすべてだった。
私、このまま誰にも知られず、死んでいくのかな。
誰にも必要とされずに、たった一人で。
荒れ狂う波を越え、船はとある島へと到着した。
「さらばだ、無能女」
御者の兵士が嘲笑う。
「余生、精々楽しめよ。降りろ!」
兵士に背中を突き飛ばされ、私は岩場に無様に転がった。
高笑いと共に、船は離れていく。
私は岩場に座り込んだまま、ただ呆然と海を見ていた。
寒さと空腹、そして絶望。
私の人生は、ここで終わるのだ。
十七年間の、意味のない人生が。
「ここで……死ぬのね」
力が抜け、私はごつごつした岩に倒れ込んだ。
ゴッ!
鈍い音がして、額に激痛が走る。
――痛い。
視界が明滅する。
その時だった。
頭蓋の奥で、何かがパチンと弾けた音がしたのは。
……あれ?
まるで堰を切ったように、奔流のような記憶が溢れ出してきた。
見たことのない魔法陣。
ひれ伏す人間、そして魔族たち。
世界を震撼させた、絶対的な力の記憶。
そして、最後に見た光の勇者の顔。
痛みは、もはや遠い。
代わりに湧き上がってきたのは、腹の底から煮えたぎるような、懐かしい全能感。
倒れていた私は、ゆらりと立ち上がった。
瞳から、怯えと絶望の色が完全に消え失せている。
代わりに宿ったのは、深淵のような底知れぬ光。
「私は……」
口元に、不敵な笑みが浮かぶ。
世界を恐怖させた魔王の笑み。
「ふふ……あの石頭の公爵め。私の魔力が測定不能だったのは、あのチャチなガラス玉の測定器の限界を遥かに超えていたからだとも気づかずに」
自分の手のひらを握り込み、その強靭な力の脈動を確かめる。
血が巡る。
魔力が世界と直結する。
「見てなさい。私は、絶対に生き延びてみせる。そして、今度こそ幸せになってみせるわ。美味しいものを食べて、昼まで寝て、圧倒的な武力と知力でスローライフを謳歌してやる!」
指を鳴らす。
その一瞬で、周囲の大気中の魔素が渦を巻き、私に従うように集まった。
三百年の眠りから目覚めた、本物の魔力が。
公爵家?
そんな窮屈な箱庭、物理で叩き割ってやればよかったのだ。
魔力がないなら、拳で語ればよかった。
世界の理など、私がこの手で都合よく捻じ曲げてやる。
「まずは脱出ね……あ、ちょうどいい足が来たわね」
風が吹き荒れる。
哀れな無能令嬢チェリの物語は、ここで終わった。
そして今、前代未聞の隠居系物理逆転劇が幕を開ける。
これが、私の物語のプロローグ。
★
「チェリさん、どうしたんですか?」
現在。
薬屋のカウンターで頬杖をついていた私の顔を、アレクシオン様が心配そうに覗き込んできた。
「難しい顔をして」
「え!? な、何でもないわ」
突如覗き込んで来たアレクシオン様に思わず反射的に仰け反る。
「ただ、昔の自分に教えてあげたいな、って思ってたの」
「何を?」
「秘密」
私は、ポケットの中の小さな袋に触れた。
ジョージがくれた月下香の種。
呪告館の庭に蒔いたそれは、私の魔力と、たまに来る四天王たちの過剰な加護のおかげで、今はふさふさと緑の葉を広げ、もうすぐ白い花を咲かせようとしている。
ありがとう、過去の私。
生きていてくれて。
そのおかげで、今の私がいる。
あの絶望があったからこそ、この騒がしくて厄介な日常が、愛おしく思えるのだから。
「チェリさん」
不意に、アレクシオン様が私の手首をそっと掴んだ。
「過去に何があったのか、貴女がどんな『秘密』を抱えているのかは聞きません」
彼の瞳が、真っ直ぐに私を射抜く。
「でも、これからの貴女の未来は……僕が、誰よりも近くで守りますから」
一見すれば、爽やかで頼もしい騎士の誓い。
だが、今の私にはわかる。
その言葉の裏に隠された、彼特有の重たくて逃げ場のない光の拘束が。
「……ええ。えっと、お手柔らかに……」
私は冷汗を流しながら、彼の手の下から自分の手をさりげなく抜き取る。
もう、私は二度と、折れない。
どんな絶望にも、どんな過去にも。
そして、ヤンデレ疑惑のある勇者の末裔から向けられる好意にも、真っ向から立ち向かってやるのだ。




