34 聖地は不可分なので十字軍は妥協できなかった
ドッと疲れが押し寄せてきた。司教様を見てホッとしたせいか力が抜けてしまい、腹筋するようには起き上がれない。そのまま仰向けに倒れたままになる。
空が青い。
俺からはよく見えなかったが、テオバルド司教の部下と思われる男が数人、扉を通り過ぎていった。ナイフを持っていたジュスティーナ様だったが、抵抗するような音は聞こえず、取り押さえられるがままになったようだ。さっきのナイフ使いからいえば数人は倒せそうだったが、多勢に無勢だと判断したのだろうか。
「パウロ様、ピエトロが来次第、馬車までお連れしますので、しばしのご辛抱を。」
俺にかがみこむようにして司教様が言う。ピエトロのことなんて聞きたくもなかったが、今はクビにする気力も残っていない。
「パウロ様、ほんとご無事でよかったわ、ね!」
司教様の後ろにはどうやらずっとリヴィアがいたようだ。鳴き声は聞こえないが気配からして犬のローランもいるようだ。
「パウロ様、リヴィア様がこの迷路のような屋敷で、私をおそらくはお二人がいるところまで誘導していただいたのです。」
顔をよじるようにしてリヴィアをみると、心からホッとしているような表情の少女が立っていた。鍵束を持っている。
「家で鬼ごっこをするとあの場所で大体あの場所で追い詰められてしまうの。パウロ様があそこまで無傷でたどり着けてよかったわ、ね!」
この子はいい子すぎるだろう。あの狂人に傷つけられなくてほんとによかったと思う。
「ありがとう、リヴィア、この恩は、必ず。」
リヴィアは満面の笑顔で俺を覗き込んだ。
「じゃあお礼に一つだけ、私の頼みを聞いてくれる、ね!」
「いいよ。」
命の恩人みたいなものだし、リヴィアのことだから「いつも一緒に踊ってほしい」とか、そういう方向でくると思った。
「じゃあ私と結婚して、ね!」
リヴィアは最高の笑顔で結婚を申し込んできたが、想定外だと言わざるを得ない。
ええと、なかなかレベルの高い要求が来たな。
「もうちょっと現実的なお願いにしてくれない?」
なんでも言うことを聞くとは言ってないし、俺はカプレーティ本家に婿に入る予定だ。リヴィアと結婚したら楽しそうだとは少し思ったけど。
「僭越ながらリヴィア様、賢いあなたならお分かりでしょうが、名高きカプレーティの一員とはいえ分家の次女のリヴィア様がパウロ様にとって最善の選択とはなりません。」
テオバルドさまが援護に入ってくれた。
「本家と言っても商家なのよ、ね。お姉様が修道院に入るとしたら、このお城と領地を土地するのはリヴィアよ。商売はなさらないパウロ様には私がぴったり、ね!」
リヴィアが賢いなんて言うのはテオバルド様の冗談だと思ったが、見た目に反して結構論理的な女の子のようだ。テニスとダンスに夢中な可愛い女の子、という印象だったのに。
リヴィアをぼうっと見つめると、赤くなってもじもじし始めた。
「それに、その、パウロ様の・・・パウロさまがまだ男でいらっしゃるのは私のおかげだと思うの。そうしたら、当然パウロ様の、種、は私にも分けてもらえるはずよ、ね!」
可愛い顔をしながらなかなか際どいことを言っている。姉が貞淑の誓いをしていたにしては、結構ませているみたいだ。誰が姉妹を教育していたのか気になる。
「パウロ様、今こそボローニャで教わった法律を生かす時ですぞ。」
テオバルドさまは楽しんでいるようだ。この人は記憶のことを知っているのに。
一応教科書は読んでいるけど、去勢されそうになって助けられた時の判例とか一つもなかったから。
「えっと、とりあえず、誰かの領地を第三者の侵略から守ったからと言って、その領地を自分のものにすることはできない、と書いてあったよ。」
持っていた本の判例はほとんどが土地や相続、借金についてだった。多分パウロは刑法に興味がなかったんだろうと思う。この時代刑罰は残酷だしね。
「でもパウロ様のご実家がブレシアの街を守ったとき、その代わりとしてブレシアの土地の少し譲られていたと思うの、ね!」
ブレシアの件は初耳だけど、アルベルト伯父さまならやりかねない。それにしてもリヴィアは喋り方は馬鹿そうなのに、やたらと物知りだ。
「私も、その、パウロさまの・・・さまのを、全部じゃなくて、いつでも思うがままにってわけじゃないの。その、私が奪うんじゃなくて、二人で、ね!」
そして多分知らなくていいことも知っている。見た目は中学生なのに恐ろしい。
「えっと、ブレシアの土地は可分だったけど、この場合、俺の・・・橋や水車のように所有権が不可分な場合は、一部の譲渡じゃなくて代わりとして金銭による謝礼になるんだ。」
なんでこの場所で仰向けに倒れたまま法律の話をしないといけないんだろう。
テオバルドさまがここで助け舟を出してくれた。
「橋を守った場合は通行権、水車を守った場合は使用権を要求することができますが。」
いや、全然助け舟になっていない。リヴィアが「通行・・・」とか言いながら顔をさらに赤くしているけど、ちょっとまずい展開だ。
「ほら、その、使用権って言ってもそもそも俺の合意がないと言うか・・・」
「ご名答、『合意は拘束する』、これが法律の原則ですな。パウロ様の合意のない謝礼はありません。」
テオバルド司教は、生徒の進歩を喜ぶ先生のような顔をして、満足そうに頷いた。
「そんなあ、パウロさまあ!」
リヴィアは明らかに悲しそうにしている。恩人に対してちょっと意地が悪いかもしれないが、ジュスティーナ 様に襲われた後リヴィアに襲われる心配まではしたくない。
「あと、俺の一番深刻な危機から守ってくれたのはローランだったから、もしどうしても結婚するならローランにする。」
「ローランは雄よ。」
「教会は動物との肉体関係を固く禁じております。」
冗談をわかってくれない二人だ。ローラン自身は特にコメントはないようでじっと座っている。
「あ、パウロ様、タイツの前がお破れになっていて、リヴィアはレディーとして見てはいけないものを見てしまったの。私はもう汚れてしまって、パウロ様以外にお嫁に行けなくなっちゃいました、ね!」
見ると『いい事考えた!』という顔をしているリヴィアがいる。
「いや、見えてない、見えてない。」
手で押さえながら見えていないか確認する。大丈夫、タイツは破れているが下着は無事だ。この中学生は油断も隙もない。
そんな一悶着をしていると、ピエトロが走ってきた。
「パウロ様、どうなされたんです、我慢できないなら寝っ転がってないで早いところ厠に向かってください。」
こいつは頭にくるからというより役に立たないからクビにした方が正当かもしれない。
でも平和だ。会話の内容が10分前には考えられなかったくらい平和だ。
名残惜しそうなリヴィアに見送られつつ、司教様とピエトロが先導して、俺は馬車に担ぎ込まれた。
揺れのひどい馬車の中で、俺はそのまま寝てしまった。




