33 犬は古代エジプトから人間の友達
ジュスティーナ 様は俺に息遣いが聞こえる距離に迫っていた。ただただ怖い。さっき達人のようなナイフ使いを見せつけられたばかりで、迂闊に動けない。
「待って。」
自分でも驚くか細い声が出た。彼女は首を横に振る。
ふと、テオバルド司教様の言葉が頭をよぎった。手を拱いていると弾圧されるのがわかっているから、リスクをとって反乱を起こす人間がいるのだ。
そうだ、逃げる機会を伺っていたら男じゃなくなっていた、なんて冗談じゃない。
「はあっ!」
大声を出して肩を突き飛ばす、つもりだった。ジュスティーナ 様はさっと身を翻して、俺の手は宙を切った。
「パリス様、じっとしていれば終わりますから。」
サクッという音がした。
恐る恐る下を見ると、ヴェストのベルトより下の部分が切り取られている。
「安心してください。綺麗な部分は一切傷つけないよう、慎重にとりはからいますから。」
ジュスティーナ 様は流れるような動きでズボンに手をかけ、縦に切れ目を入れた。この時代のナイフはこんなに切れ味が良くないはずだ。なぜこんなに手際がいいんだ。
もう後がない。
死ぬのか、俺。男として。
「行きなさいローラン!」
どこからか聞き覚えのある声がした。
誰か思い出す前に、ドアが勢いよく開けられ、部屋に入ってきた何やら黒い物が、まっすぐ俺たちの方にかけてきた。
「手元が狂うじゃない、やめなさい。」
ジュスティーナ 様が初めて動転した声をあげた。俺も下手に動けない。
黒い物体はジュスティーナ 様に体当たりした。犬だ。やたら胴が細い。ジュスティーナ 様も防戦一方で、一旦ナイフをしまい込むのが見えた。
「パウロ様、早く逃げて。」
そうか、逃げられるのか。
助かるかもしれないのか。
ありがとう。
「ありがとうリヴィア!」
ドアにはピンクのドレスを着た少女が立っていた、犬を盾にするようにしてリヴィアのところまで走る。ジュスティーナ 様が何か叫んでいるが、犬の鳴き声と重なってわからない。
「下の階にあなたの従者がいるわ。」
犬に加勢にいくリヴィアとすれ違いになる。
「気をつけて、相手はナイフ使いだ。」
リヴィアは怯まなかった。
「ローランは穴熊だって仕留めるのよ。むしろ喉を噛まないように見てやらないと。」
後ろを見るとジュスティーナ 様は犬相手にはナイフを使わないようだ。だが、俺と視線が合うと、まとわりつく犬を押しのけるようにしてドアに動いてくる
「逃げて!」
リヴィアに押されるように廊下に出た。ターゲットは俺だ、リヴィアが切られることは多分ないはずだ。
階段まで走る。
ズボンの前を切られているのでうまく走れないが、両手でつなぎ合わせるようにしてずり落ちないようにする。自分でも驚くようなスピードで足を交互に踏み下ろしていく。何度か踏み外しそうになる。
階段を降りた廊下の先に、見慣れた影があった。
「ピーエートーロー!!」
「パウロ様・・・トイレの我慢ができないほどお子様だとは流石に思いませんでした。」
ピエトロは何か気持ち悪いものをみる目つきをしていた。ズボンの前を切られていたので、前を抑えて走っていたのだ。
「助かった、ピエトロ!」
「パウロ様、その手で俺をつかもうとしないでください。それに私もそれどころじゃありません。」
逃げられるを止めようとすると、マントをさっと翻して逃げられた。それどころってなんだ。一番大事な・・・
「助けてくれ!!」
「助けようがないでしょう。厠は私の向かう反対方向です。漏らさないでくださいね。」
そういうとピエトロはそのまま走り去っていった。助けに来てくれたんじゃなかったのか。
主人の貞操も守れないなんて、今度こそ絶対にクビだ。
いや貞操とはちょっと違うかもしれないけど、細かいことは気にしていられない。
「パリス伯爵、運命から逃げるのはやめましょう。」
階段から声がした。いつの間にかジュスティーナ様が犬とリヴィアを突破している。
遠くで一人と一匹の声が聞こえたので、危害は加えなかったようだ。
それどころじゃない。
走る。
とにかく走る。
脱げかけたズボンが足を引っ張るからか、後ろとあまり差が広がらない。すすすと小さな音を立てて追ってくるのがわかる。
段差が多いロザリナとリヴィアの家は構造が複雑だった。気が向いた方向に走っているが、このままだと玄関に着く前に行き止まりになるかもしれない。
息が上がる。走った距離以上に、多分メンタルの面で疲れがきている。
数十メートル先にドアが見えた。
外に出られる。駆け寄ってドアの内側の鍵を思いっきりあけた。
開かなかった。鍵の部分が錆びついている。
「パリス伯爵、これも神様の思し召しでしょう。」
ジュスティーナ様がついに同じ通路に入ってきた。走るのをやめて一歩一歩距離を詰めてくる。
ドアに体を押し当て、手では鍵を開けようとしていたが、焦って手元が震える。
俺は頑張った。あらがうだけあらがったのだ。
「呪うからな、お前のこと・・・」
一緒に地獄に落ちてやる。
「パリス伯爵、いつか私に感謝する日がきっときます。」
最後まで、彼女には何を言っても通じないようだ。
「神様って理不尽だ。」
腰が抜けるようにドアに寄りかかったまま後ろに倒れた。
終わりだ。
ドアに寄りかかっていたのに?それに少し周りが明るい。眩しい。
ドアが開いたのだ。
「パウロ様、ご無事ですか。」
ドアを開けたのは、俺じゃなかった。だらしなく仰向けに横たわった俺を見下ろしていたのは、大きな鍵を持ったテオバルド司教だった。
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