32 花形歌手はソプラノではなくカストラートだった
耳を疑った。ついさっきまでも困っていたが、それは振った相手を前にしてかける言葉が見つからなかったからだった。今は、目の前の人を泣かせたのは確かに自分なのに、なぜそう泣いているのか全く分からない、そんなシュールな気分だ。
「修道院って、男女別じゃないのか?」
とりあえず最初の疑問をぶつけてみる。なんとなくシスターのイメージはあるけど、修道士が何をしているのか知らない。
冷えた声で答えたのはジュスティーナ 様だった。
「生涯を神に捧げるのです。どんなに孤独なことか想像がつくでしょう。一緒に誓い合った仲間がいるというのは、どれほどの支えになると思いますか。」
ロザリナ様に手を添え、殺意のある目でこっちを睨むジュスティーナ 様。理屈としては分からない訳ではないが、そんな少女漫画みたいなことを言われて生涯拘束されても困る。
「パウロ・・・様となら・・・励ましあって、生きていけると・・・」
ロザリナ様は蚊の泣くような声になっていた。目が赤く、いつもの青白い肌も少しピンク色になっている。有馬晴樹以前のパウロ様は、きっとロザリナ様のペンパルになれるような優しい人だったんだろう。しかしこの見た目と財産があって修道士志望っていうのは、どんな心境だったのか想像がつかない。
「ロザリナ様、約束を破ってしまい申し訳ありません。しかし、ロザリナ様はまだお若くて綺麗です。あなたにはまだ色々な可能性が・・・」
「ロザリナ様は貞淑を守る誓いをたてておいでです。今更たぶらかすつもりですか。」
ジュスティーナ 様が制止する。たぶらかすつもりは全くないし、誰もが修道院に入る自由はあるだろうけど、文通友達一人いなくなって泣き崩れるというのはどうなのだろう。
「俺なんかのことは忘れてください。ロザリナ様の人生です。もっと考えて・・・」
「さっきから言わせておけば図々しい。リッツォさん、ロザリナ様を寝室に連れて行って差し上げて。」
どこに控えていたのか、黒服の使用人が出てきて、ロザリナを抱きかかえる。ジュスティーナ 様は、先日リヴィアに仕えていたこの家の使用人にテキパキ指図していた。常連か何かなのだろうか。
「パウロ様、なんのご挨拶も・・・できませんで・・・落ち着いたらいずれ・・・」
涙が止まっていないロザリナ様だったが、レディーらしい挨拶をしようと頑張っていた。
「ええ、どうぞお休みになってください。お手紙お待ちしています。」
会釈をした使用人がロザリナ様を運ぶのを見送る。
「さて、パリス伯爵。」
他に使用人は控えていなかったようで、この少し暗いやや息苦しい空間に残されたのは、ジュスティーナ 様と俺だけだった。
「私の知る中で最も高貴な方のプライドを、あなたは傷つけました。私が出会った中で最もまっすぐな方の心を、あなたはねじりつけました。」
散文調のセリフが、ひやっとするような声に乗っかって不気味に響く。
「これをどうやって償えるとお考えですか。」
「誠心誠意謝っていきたいと・・・」
以前にニュースで見た、不祥事の記者会見を思い出していた。何か使えるセリフはなかったか。
「言葉でも態度でもなく、行動で見せるべきでしょう。」
ジュスティーナ 様は銀色に光るものを懐から取り出した。ナイフだ。
気のせいかもしれないが、怯えた自分の顔が刃先に映った気がする。行動する人間の顔じゃない。
待った、ここはイタリア、切腹なんてしないはず。
「自殺は良くないと神様も言っていらっしゃいます。」
よく読んだことはないけど多分言っていると思う。
「だいたいなぜそんな危ないものを持ち歩いているんですか。」
「私の貞操を守るため、万が一の時に私を刺せるよう携帯しているのです。」
なるほど、この人も貞淑の誓いとやらを立てたんだろうか。
感心している場合じゃないのは確かだ。
「さあ、パリス伯爵、俗世との縁を断ち切るのです。」
ジュスティーナ 様は一歩一歩こちらに歩きよってきた。今気づいたが、俺がいるのは窓側でドアから遠い。後ずさりを続けると追い込まれる。
どうする。
どうするんだ。
「待つんだ、話せばわかる。」
とっさにそのセリフが思いついた。誰か偉人がそういうセリフを言っていた気がした。
「人傷つければ、罪人になる。天国、行けない。」
片言になってしまったが、メッセージは伝わるはずだ。
「心配はありません。パリス伯爵と汚らわしい欲望とのつながりを、断ち切ってしまうのです。そうすれば神への信仰の道が開かれます。」
怖い。狂信的な感じだ。目が据わっている。
「俺の魂は汚れてしまっているから、俺の体を殺しても魂は浄化されない。」
「何を勘違いしていらっしゃるのです。」
この状況でよくそんなことが言えるな。狂っているのか。
まさか13世紀まで来て狂った人に殺されるなんて。
「私はパリス伯爵を殺めることなどありません。パリス伯爵の汚れた部分を取り除くのです。そしてパウロ様の考えを改めさせるのです。」
こういうスピリチュアルな人いつの時代もいるんだな。殺人しても魂は救ったとか言い張り続けるんだろうな。
ドアまで走るしかない。服の上から腕を切られても、女の人の力だったらなんとかなるはずだ。
右か、左か。
「何を伺っていらっしゃるのかしら。」
ジュスティーナ 様はナイフを左右に振って見せた。驚くほど俊敏な動きだ。これは人なんて簡単に殺せるのだろう。どこで身につけたのか。
「護身術の応用です。」
俺の考えを見透かしたように答える。でも、これで脱走は難しくなった。
命乞いをするしかない。
「ジュスティーナ 様。どうか、このか弱い体を、痛めつけないでください。俺の魂はこの体から抜け出して浄化されるほど高貴なものではありません。」
土下座をしたらわかってくれるだろうか。でもナイフを振り下ろされるところが見えないのは怖い。
「どうか。」
「さっきから何をおっしゃっているのですか。私がナイフを入れても伯爵の美しい身体は不滅です。」
狂人には何を言っても通じないんだろうか。
美しい身体、そっちで攻められないか。
「この美しい身体が腐敗して、土に帰る、残念だとは思いませんか。ロザリナ様もそれは望まないと思いませんか。」
自分に酔っているセリフだ。でも助かるためなら。
「さっきから意味がわかりません。パリス様のお美しい部分はそのままに、諸悪の根源を切り取ってしまえばいいのです。」
嫌な予感がしてきた。
「パリス様が悪魔に惑わされたなら、その誘惑を断ち切る必要があるのです。目を隠すような対処療法ではなく、欲望を退治するのです。」
まさか。
「切り取るってまさか・・・」
「これもパリス様が一心不乱に神の道へと進むちょっとしたお助けにすぎません。ロザリナ様との誓いも果たされます。」
まさか。
「動物病院でやるやつ、しようとしてるの?」
「動物に病院があるとは知りませんでしたが、牛にはしますね。」
思わず手で前をガードして、後ずさりする。
「生きる分には全く問題ありません。切り取っている歌手も少なくありませんわ。」
確かに少年みたいな声を出す男の歌手がいる。
そういう問題じゃないだろう。死ぬのも嫌だったが、これは想像を絶する。
「さあ、その邪悪な部分から手をおどけになって。」
「無理、頼むから、お願いだから。」
「伯爵様、ティボルトの前ではあんなに悠然としていらしたじゃないですか。色欲はこんなにも人を弱くするのですね。」
欲以前に思い残すことが多すぎる。恋愛らしい恋愛だってしたことがない。
「大丈夫ですよ、神の道には必要のないものです。」
神様なんか嫌いだ。
助けて神様。
「神様、パリス様が二度と道を違うことのありませぬよう、いざ。」
誰か助けて。
「うわああああああ!」
「まだ濁った声をしていらっしゃいますが、あくる日には素敵なカストラートの声が手に入るでしょう。」
初めてジュスティーナ様が笑ったのを見た。俺の肩に手がかかった。




