【邪神の契約】奈落の底での覚醒
――グチャリ。
全身の骨という骨が砕け散る、おぞましい音が響いた。
どれほどの時間を落下し続けたのだろうか。
奈落の底に叩きつけられた俺の体は、原型を留めないほどにひしゃげ、視界は自分の血で真っ赤に染まっていた。
「ガ、あ……っ、かはっ……」
息をするだけで、肺から血の泡が漏れる。
指一本、ピクリとも動かせない。
周囲には高濃度の瘴気が立ち込め、俺の皮膚をジリジリと溶かしていく。
さらに暗闇の奥からは、獲物の血の匂いを嗅ぎつけた凶悪な魔物たちの、飢えた唸り声が無数に近づいてきていた。
(ここで、終わるのか……俺は……)
かつて人々を救うために振るった剣は、はるか上空で奪われた。
信じていた仲間には裏切られ、濡れ衣を着せられ、ゴミのように捨てられた。
(ふざけるな……ふざけるなふざけるなふざけるなッ!!)
迫り来る死の恐怖よりも、腹の底からドロドロと湧き上がる『憎悪』が勝っていた。
俺を嘲笑ったレオンの顔が。
俺を汚物呼ばわりした聖女の声が。
脳裏に焼き付いて離れない。
死にたくない。こんな理不尽な結末で、俺の人生を終わらせてたまるか。
奴らを、あの薄汚い裏切り者たちを、俺と同じ目に遭わせてやるまでは――!
「――ククッ。実に美しい、極上の『絶望』だ」
不意に、少女の鈴を転がすような、しかしどこか冷たく透き通った声が闇に響いた。
「……だ、れ、だ……」
血に染まる視界の先。瘴気の霧をかき分けるようにして、一つの影が歩み寄ってくる。
それは、漆黒のドレスを身に纏った、息を呑むほど美しい少女だった。
透き通るような白い肌。血のように赤い瞳。そして彼女の背中には、闇そのものを織り込んだような**巨大な『漆黒の翼』**が生えていた。
「我が名はノア。かつて神々と呼ばれた傲慢な連中によって、この奈落の底に封じられた『邪神』だ」
「じゃ、しん……?」
「そうだ。お前のその真っ黒に染まった魂の叫びが、私の眠りを覚ましたのだ。……どうだ、人間。お前、私と『契約』しないか?」
邪神ノアは、俺の血だまりのそばにしゃがみ込み、妖しく微笑んだ。
「お前の魂と肉体を、私の器として捧げろ。そうすれば、お前の命を繋ぎ止め、世界を恐怖で染め上げるほどの絶対的な『力』を与えてやろう」
「……魂を、捧げる……?」
「ああ。神の奇跡も、勇者の栄光も、もうお前には届かない。だが、悪魔に魂を売る覚悟があるのなら、私が這い上がらせてやる。どうする?」
迷いなど、一秒たりともなかった。
正義の勇者アレンは、あの崖の上から突き落とされた瞬間に死んだのだ。
「……いい、ぜ……。この腐りきった世界をぶっ壊せるなら……俺は、悪魔にでも、邪神にでもなってやる……ッ!」
血反吐を吐きながら、俺はノアに向かって震える右手を伸ばした。
「契約成立だ。我が半身よ、その憎悪ごと、世界を喰らい尽くせ」
ノアが俺の右手を強く握り返した瞬間――ドクンッ!! と、心臓が大きく跳ねた。
俺の体内に、ノアの体が黒い影となって溶け込んでいく。
直後、爆発的なエネルギーが全身の血管を駆け巡り、砕けた骨が、引き裂かれた肉が、一瞬にして再生していく。
『ギシャアアアアッ!!』
その時、周囲を取り囲んでいた魔物たちが、一斉に俺へ向かって飛びかかってきた。
どれも地上に出れば軍隊が必要なほどの、Sランク相当の化け物ばかりだ。
だが。
「……消えろ、雑魚が」
俺がゆっくりと立ち上がり、軽く腕を振るった瞬間。
俺の体から噴き出した**『漆黒の炎』**が猛烈な勢いで広がり、襲いかかってきた数十体の魔物たちを一瞬にして灰すら残さず焼き尽くした。
「これが……邪神の力……」
手のひらで踊る黒き炎を見つめる。
足元の水たまりに映る俺の姿は、以前の面影を失っていた。
聖なる力を宿していた純白の髪は、夜の闇よりも深い漆黒へと染まり、瞳にはノアと同じ赤い光が宿っている。
体中からあふれ出る、圧倒的で暴力的な魔力。
もはや、剣も盾もいらない。俺自身が、世界を滅ぼす災厄そのものになったのだから。
「待っていろよ、レオン……王国軍のクズ共……」
俺は黒い炎を握り潰し、奈落の遥か上空――かつての仲間たちがいる空を見上げた。
「お前らが俺に教えた絶望を……今度は俺が、たっぷりと味わせてやる」
忌み嫌われる復讐の魔王が、今、奈落の底で産声を上げた。




