【魔王の散歩】エルフの姫との邂逅
「ハァッ……ハァッ……!」
かつて緑豊かだった精霊の森は、今や見る影もなく枯れ果て、木々は茶色く変色して不気味な瘴気を漂わせていた。
その枯れた森の中を、一人の少女が必死に駆けていた。
透き通るような金糸の髪と、長く尖った耳。彼女の名はルミナ。
この森に住むエルフ一族の姫である。
「逃がすな! その女は聖女様のための極上の生贄だ! 足を斬り落としてでも連れ戻せ!」
背後から、王国軍の精鋭部隊の怒号が迫る。
ルミナは聖女エレイナの儀式の生贄として捕らえられていたが、一族の者たちが命と引き換えに作った隙を突いて、なんとか逃げ出してきたのだ。
(誰か……誰か、私たちを助けて……!)
しかし、連日の過酷な労働と魔力欠乏により、ルミナの体力はすでに限界を迎えていた。
枯れた木の根に足をとられ、彼女は無様に地面へと転がり込んでしまう。
「ひっ……!」
「捕まえたぞ、尖り耳の姫さんよ。大人しく聖女様の養分になりやがれ!」
追いついた十数人の王国兵たちが、下劣な笑みを浮かべて剣を振り上げる。
ルミナが絶望に目を閉じ、己の死を覚悟した――その時だった。
「……相変わらず、反吐が出るほど薄汚い魔力で満ちた森だな」
静寂。
振り下ろされるはずの剣の軌道が、ピタリと止まった。
いや、止まったのではない。突如として森の奥から放たれた**『絶対的なプレッシャー』**により、兵士たちの体が恐怖で硬直してしまったのだ。
「な、なんだ……!? 誰だ、そこにいるのは!」
部隊長が震える声で叫ぶと、枯れ木の陰から二つの人影がゆっくりと歩み出てきた。
一人は、銀髪を揺らす妖艶な吸血鬼の美女。
そしてもう一人は――漆黒の外套を羽織り、血のように赤い瞳を冷酷に光らせる青年、魔王アレンだった。
「き、貴様ら、何者だ! ここは聖女エレイナ様と戦士ガレス様が管理する王国軍の陣地だぞ!」
部隊長が強がって剣を向けるが、アレンは彼らをまるで路傍の石ころでも見るかのような、一切の感情が欠落した目で見下ろした。
「アレン様。いかがいたしましょうか? あのような下等生物、私が爪で引き裂いてまいりましょうか?」
「いや、いい。イリスは下がっていろ」
アレンは吸血鬼の真祖であるイリスを手で制止し、王国兵たちに向けて一歩だけ前へ出た。
「ガレスとエレイナの兵士か。……あいつら、俺から逃げてこんな森の奥でコソコソとネズミのように隠れていたわけだ」
「な、何を言っている! 貴様、本当に何者だ!」
「名乗る必要はない。お前たちは今から消えるんだからな」
アレンが、小さく右手の指を鳴らす。
――パチン。
次の瞬間、アレンの足元から奔流のように噴き出した**『漆黒の炎』**が、十数人の王国精鋭部隊を一瞬にして飲み込んだ。
「ギャアアアアッ!?」
「あつ……ッ! な、なんだこの黒い炎は! 聖女様の加護が、通じな、ぐあああああっ!!」
剣を構える暇すら与えられない。
王国が誇る精鋭たちは、反撃はおろか逃げ出すことすらできず、一瞬にして真っ黒な灰へと変わり、風に吹かれて散っていった。
「…………え?」
地面に倒れ込んだまま、ルミナは呆然とその光景を見つめていた。
自分たちエルフを何日も苦しめ続けてきた強大な精鋭部隊が、ただ指を鳴らしただけで全滅したのだ。
目の前に立つ漆黒の青年の力が、どれほど規格外で恐ろしいものか、ルミナの肌がビリビリと警告を発している。
しかし、彼が自分を助けてくれたのは事実だ。
ルミナは震える足で立ち上がり、深く頭を下げた。
「あ、あの……! 助けていただき、本当にありがとうございます……! あなた様は、神がこの森を救うために遣わしてくださった、救世主様なのですか……?」
精一杯の感謝と希望を込めて見上げたルミナ。
しかし、返ってきたのは、身の毛もよだつほど冷酷な言葉だった。
「救世主? ……馬鹿なことを言うな。反吐が出る」
アレンは冷たい瞳でルミナを見下ろした。
「勘違いするなよ、エルフ。俺はただ、俺の歩く道に目障りなゴミが落ちていたから、火をつけて払っただけだ。お前を助けたわけじゃない」
「え……?」
「俺は、人間も、精霊も、エルフも、誰一人救うつもりはない。俺の目的はただ一つ、この森の中心にあるあのふざけた『霊樹』をぶっ壊すことだけだ」
アレンはルミナの横を通り過ぎ、森の最深部――赤黒く脈打つ霊樹の方角へと歩き出す。
「ま、待ってください! あそこには、王国軍の本隊と、恐ろしい力を持った戦士ガレスがいます! 今の霊樹は狂っていて、近づくだけでも危険――」
「知っている」
ルミナの警告を遮り、アレンは足を止めずに振り返りもしなかった。
「ガレスだろうがエレイナだろうが、まとめて俺がすり潰す。……お前はせいぜい、巻き添えになって死なないように遠くで震えていろ」
絶望に支配された森を、漆黒の魔王が悠然と歩いていく。
誰にも理解されず、誰の感謝も求めず、ただ己の覇道と復讐のために突き進むその圧倒的な背中を、ルミナはただ呆然と見送ることしかできなかった。




