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四章






 彼女の心の一端に触れたあの日から私は少し吹っ切れていた。

 彼女の自傷以上に怖いことは起きないだろうし。


 それに彼女が少し自分のことを話してくれるようになったから、以前よりもずっと親しみを込めて声をかけられる。質問さえできるくらいに。


 未だ名前は教えてもらえていないけれど、それでも少し受け入れてもらえていた。

 怪我の功名と言うには痛すぎるけれど、それでも少しは進んでいる。



 だから、思い切って尋ねてみた。


「吸血鬼が恋をしたら死んでしまうって…あれはどういう意味なの?」


この時の私はなにかの比喩だろうと思っていた。


 まさか本当に死んでしまうなんて思いもしなかった。

 それくらい事実を語る彼女の感情は平坦で、その事実に興味がなさそうで。


 彼女は私の言葉に目を細めた。

 そして、雑に言葉を並べ始める。


「文字通りだよ。血が吸えなくなるんだ」


「え…でも、この前血しか吸えないって」


「僕のエサは確かに人間の血だ。けど、恋をすると恋した相手の血しか受け付けなくなる。全く面倒な体だよ」


それなら死んだりしないはずだ。


 相手から血を提供してもらえば、問題なく生きていけるじゃないか。

 それとも、それを拒まれたのだろうか。


 なら、私が説得に行って───。


 彼女は私を見て小さく息を吐いた。


「君が考えていることはなんとなくわかるけど、それは解決にならない。それじゃ、僕の渇きは癒えない。彼の血を飲みきるまで満足できないんだ」


彼女の言葉には全く感情が乗っていなかった。


 それは諦めているわけでも、苦しんでいるわけでもない。

 そこにあるのはそういうものだという理解だ。


 彼女は受け入れてしまっている。

 吸血鬼がそうなるのは仕方がないことだと思っていることがわかってしまった。


「そして、彼を殺した後も彼の血しか受け付けない。笑えるだろ?…どうやったって僕は死ぬんだよ」


彼女は少し口元を歪める。


 一瞬僅かに自嘲の色が混ざったように見えた。


 感情がないなんて嘘だと思った。

 死を受け入れていても孤独の苦しみも、いつか持っていた幸福も彼女の中にある。


 やっぱり彼女は人間だ。


「……その人は」


どうにか私は彼女の心を変えたかった。


 この世に100%なんてない。

 彼女の死を覆す何かが必ずあるはずだ。

 彼女にもそれを考えてほしい。

 その可能性を信じてほしい。


 だから、触れてはいけない彼女の心に踏み込んだ。


 この話はきっと彼女の悲しさを掘り起こしてしまう。けれど、それでも聞かなければいけないことだった。


「彼は何も知らないよ。知っていたら真っ先に騒いで君よりここに入り浸ったんじゃないかな。…親しくない僕相手にとても優しかったから」


彼女は懐かしむように遠くを見ている。


 あの日と同じだ。


 けれど、彼女が彼のことを過去のことだと割り切ってしまっているということがありありとわかった。

 だからこんなに穏やかに話せる。


 彼女の諦念は、こうして一つ一つ割り切った上に成り立っている。


 けれど、それは全然割り切れてなんかない。

 忘れられてなんかない。

 求めているから諦めるのだ。


 だから、彼女は今だって苦しい。


「彼のことを好きじゃなくなったらこの状況は変わる?」


口にしてからこの考え方がとても非道なものだと思った。

 心を捻じ曲げるようなことを提案するなんて自分の心が信じられない。


 けれど、真っ先に思いついた解決策はこれだった。


 だって、逆説的に言えば恋をしなければ彼女は死なないはずだ。


「はは、君らしくないセリフだな。…ご当主様にも言われたけどそれはできない。僕は死ぬまで彼が好きだよ」


彼女は柔らかく笑っている。


 彼女の笑顔なんて初めて見た。


 自然に笑えるくらい彼のことが好きなのに。

 そこまでの心を抱えて尚、死ぬことを選ぶのか。


「僕は彼に心をもらったんだ。それと同時に完璧な化け物になったんだから皮肉としか言いようがないけどさ。それでも僕にとって彼は特別なんだ」


そこでハッとした。


 彼女が生きている限り、彼は血を吸い尽くされて死ぬ可能性がある。少なくとも彼女はそう思っている。

 だからこそ、死ぬと心に決めているのか。


 そんな悲しい話、私は認められない。



 彼の言葉なら彼女に届くのだろうか。

 彼を連れてくれば、彼女の心は多少なりとも救われるだろうか。


 初めから手を差し伸ばしてくれたという彼ならば───。



 会わせてあげたいと思った。

 なんの進展にもならないけれど、それでも会わせてあげたい。



 怜に相談してみようか。

 怜は彼のことも知っている。


 けれど、その前に。



「ねぇ、あなたの名前を教えて?」


脈絡なんてないってわかっている。

 けれど、聞くなら今だと思った。


 いや、違うな。

 彼女の名前を知らないまま彼のことを知ることはできないと思った。


「今聞くか、普通」


少し驚いて、けれど馬鹿にしたような声音で彼女は言った。

 それでも返事をせずに見つめていると、彼女の視線が逸された。


 そして。


「僕の名前は九条ゆらだ。知ったところで何の意味があるんだって話だけど」


ゆらは静かにそう言った。


 そして、興味を失ったかのように窓の外に目を向ける。


 私は部屋に帰ることにした。

 

 戻ったらに連絡してみよう。



 どうかゆらが救われますように。


 そう願った。






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