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三章






 あれから私は毎日彼女の部屋に通っている。


 通っているうちにあの場所は関係者でないと入れないということを知った。

 一度昼に訪ねようとしたら、止められて部屋の前にさえいけなかった。


 彼女は一体何者なのだろう。


 けれど私はそれを誰かに問うことはしなかった。聞くなら本人からでなければ意味がない。


 それに他人が自分のことを語るのはあまり気分がいいものではないだろう。

 だから、私は彼女が話してくれるのを待っている。



 毎日夜が待ち遠しかった。


 私は毎日何を持っていけば彼女が喜ぶのかを考えている。

 けれど、今のところ何を持っていっても喜んでもらえたことはない。


 定番の花は無表情で見つめるだけで受け取ってもらえなかったし、おすすめのお菓子は「僕はいらない」と一口も食べてくれなかった。


 唸るように頭を悩ませていると、ノックと共に怜が入って来た。


 怜は時々やって来ては、彼女について私に尋ねる。

 すぐ近くにいるのだから自分で尋ねればいいのにと思うけれど、会いにいけない理由があるようだった。

 その理由は言いたくないらしく、ただ彼女が幼馴染だということだけ教えてくれた。


 きっと今日も彼女について尋ねられるのだろうと顔を見ると、怜は初めて見るほど顔をこわばらせていた。


「怜ちゃん大丈夫?」


怜は私の声にハッとして、いつも通りの表情を浮かべようとした。けれど、やっぱりいつもより硬かった。


「アイツ、痩せてないわよね」


「毎日会ってるから何とも言えないけど、元から細いよ?」


彼女は細い。

 けれど、病人だったらあれくらいだと思う。


 彼女の行動範囲は中庭くらいだし、外に出るのも風にあたっているだけだ。


 もしかして、彼女は病気ではないのだろうか。

 もしそうだとしたら、どう考えても痩せすぎだった。


 そう考えてはたと気づく。

 そもそもここは先祖返りの施設だと怜が言っていたじゃないか。



 ここに病人はいない。


 じゃあ彼女は?



「今日もアイツに会いに行くわよね?」


問われて反射的に頷こうとした。

 けれど、違う。今日は“来るな”と言われていた。

 そのことを彼女の目に似た夕陽で思い出した。


「今日はダメだって言われた」


「…アイツのところへ行って」


「でも、今日は」


「お願い部屋を覗くだけでいいの」


そう乞うように早口で言って、怜は溜息をついた。

 らしくないことをしている自覚があるらしい。


「怜ちゃん、自分で行かないの?」


以前切り捨てられた質問をもう一度口にする。


 知りたいことがあるなら、自分で行く方が確実だ。特に痩せたかどうかは偶に会う人間の方がわかりやすい。

 それに私は二人で話しているところが見てみたかった。


「…行けない。私はアイツに会わない」


言い切った怜は口を固く引き結んだ。

 何も話さないという意思表示だろう。


 今の怜は何故かとても悲しそうに見えた。怒っている顔なのに今にも泣き出しそうだ。

 手を見ると、力一杯握りしめて震えている。


 いつも強く気高い怜は彼女の話になると心を揺らす。

 二人の間には何か重いものが横たわっている。それがなければ、二人は親しい友人だったのだろう。


 私にできることは何か───。


 あぁ、怜の願うように会いに行くくらいしかできないのか。

 そして、彼女に怜のことを尋ねる。二人の間にある何かを知ることができれば、苛まれている怜の心を和らげることができるかもしれない。


「わかった。私が見てくるよ。だから安心して!」


胸を張って笑うと怜はバツが悪そうに目を逸らした。


「…アイツを満月の日に一人にすると碌なことがないの」


怜は早口で言いわけするように言う。

 まるで怒られるのが怖い子供みたいだった。


 こんなことで誰も怒ったりしないのに。

 それとも彼女はこんなことで怒るのだろうか。

 だとしたら少し怖いかもしれない、なんて。


 窓の外を見る。

 帳が落ちつつある空がなぜだか寒々しく見えた。

 嫌な予感がする。


 ふっと息を吐いて私はその考えを追い出した。


 怜はそんな私を見て何を思ったのか、ギュッと眉を寄せた。


「私アンタが少し羨ましいの。私はアイツに嫌われてるから。だからさ、アイツのことお願いね」


怜の心から血が流れているように感じた。


 そんなことないよって言ってあげたかった。


 実際、彼女が怜のことを嫌いなんってことはないと思う。けれど、不確かなことを伝えることは躊躇われた。


 怜は慰めなんて嫌いだ。だから、今の私には何も言えない。

 弁解したい気持ちでいっぱいだけれど、それは次会った時に取っておくことにする。


 だから、私は代わりにギュッと怜の手を握った。


 私の手はかじかんでいたから冷たいって怒られたけれど、それに笑うと今度は熱いと怒られた。

 そのおかげか怜はいつものようなツンとした表情に戻っていた。


 私がちゃんと二人を繋いで見せるから。


 決意を胸に私は怜に笑いかけた。




◆◆◆




 私は気配を消して彼女の扉の前に立っていた。

 ノックをするかしないかで迷っている。


 きっと怜の意を汲むなら、こっそり扉を開けるべきだ。

 けれどそれは絶対にしたくない。私は彼女に嫌われたくない。

 かといって、ノックして入れば何かを隠されてしまうような気がした。勘でしかないけれど。

 結局折衷案として、ノックはせずに、けれど気配は殺さずに開けることにした。


 不安で冷えそうな体を落ち着けるために、ふーっと息を吐く。

 そして、勢いよく扉を開けた。


 部屋の中は電気が消えていて、月明かりでしか中を確認することができない。


 留守かもしれないと思った。

 電気をつけずに部屋にいる人はあまりいない。彼女だって、今まで必ず電気をつけていた。

 だから、中には誰もいないかもしれないと。


 けれど、彼女はいた。


 そこにいて。


 そして───。



 信じたくない光景が目の前に広がっている。

 彼女は自分の腕を噛んでいた。   


 それが月明かりでよく見える。

 けれど、何が起きているかわからなかった。頭が理解を拒んでいる。


 血がべっとりついた口元や血が染み込んだシーツはしっかりと目に焼き付いているけれど、嘘だと思いたかった。


 そして、初めて会った日のあれは血液だったのだと頭が理解してしまった。



 むせかえるような血の匂いが私の足をすくませている。

 怖いわけではないと、思う。

 ただ、とても痛い。


 この異常な空間で彼女だけがいつも通りだ。

 目が赤いのも牙があるのも人外じみているけれど、それでも彼女は理性を手放していない。


 これはただの自傷だ。


 こんなこと許されない。


「何してるの!」


一瞬の硬直の後、私は一瞬で頭に血が上った。

 正確には怒りで体温が上がり、実際に血液沸騰一歩前だったらしいけれど、とにかく私はとても怒っていた。


「なんでここに?」


「そんなことどうでもいいよ!こんなことしちゃダメに決まってるでしょ!」


彼女は私の怒鳴り声に鳩が豆鉄砲を食ったような顔をしていた。

 驚きすぎて口元を拭うことすら忘れている。


 叱られ慣れていない彼女が悲しい。

 それは周りに叱る人間がいなかったということなのだから。


「包帯あるでしょう。どこ?」


尋ねられるがままに彼女は指を指す。

 私はそこから包帯を用意して、彼女の腕をとった。


 傷はなかった。


「どう、して…」


「僕、吸血鬼なんで」


彼女はとても軽く言った。

 そしてさらに軽く続ける。


「まぁ、自分を噛んだって意味はないんだけど。強いて言うなら暇つぶしだよ」


 彼女の言葉がショックだった。

 彼女は自分を傷つけることがおかしいことだと思っていない。


 私は崩れ落ちるように地面に座った。

 吐き出す息は白く冷たい。


 私の心が限界を訴えている。

 深呼吸すら上手くできない。


「はぁ…世話が焼ける」



 彼女は怜のように、目を合わせて声をかけてくれた。そのおかげで少し落ち着いてくる。


 呼吸が整ったところで彼女の手は離れていき、私は椅子に座った。

 彼女は乱雑に血濡れのものを地面に落として綺麗な服に着替えながらこちらを見た。


「来るなって言ったよね」


咎めるように言われて、私は眉を下げた。

 咎めるのはこちらの方なのだけれど、言葉を見つけることができなかった。


「…怜ちゃんが満月に一人はよくないって言うから心配だったの」


代わりに怜の名前を出した。


 怜とまだ親交があった頃、きっとこの吸血に似た自傷行為を怜は止めていたはずだ。


 怜はこれを知っていたから私に乞うていた。そうだと断言できるほど、今日の怜は悲痛な顔をしていた。


 それはきっと思った通りで、彼女は怜の名前を聞いて小さく舌打ちをした。

 これではまるで本当に怜のことが嫌いみたいだ。


「どうしてそんなに怜ちゃんのこと嫌がるの?」


「嫌なんだよ。九条家と久世家のためとか言って友達にさせられて、情なんか感じて」


突き放すような言葉に心が冷えてくる。

 今日は心を落ち着けることがうまくできない。


「でも、怜ちゃんはあなたのことを心配して」


「だからだよ。アイツは馬鹿なんだ」


その言葉には哀れみと多大な悲しさが含まれていた。


 窓の外に薄い雲がかかった月が見える。彼女の代わりに泣いているみたいだった。


 彼女は小さく息を吐いて話を続ける。


「吸血鬼はね。恋をしたら死ぬんだ。馬鹿馬鹿しいだろ」


彼女はそう言ったけれど、私は頷くことも首を振ることもできなかった。

 苛烈な感情を押し込んだ瞳が私が動くことを許さない。

 ただ彼女の瞳を見つめるしかできなかった。


 彼女は構わずに続ける。


「アイツ、僕が恋をしたと知った時どうしたと思う?」


馬鹿にしたように鼻で笑った彼女の手は震えていた。


「泣いたんだ。普段傲慢チキに振る舞ってるくせに泣いたんだよ。僕はそんな姿見たくなかった。僕のせいで怜が泣く?そんな馬鹿な話あってたまるか。アイツが心を砕くのは君みたいに真っ当な人間であるべきだ」


彼女はいつもと違って、感情が隠せていなかった。

 怒りを隠しきれないその姿が怜への思いの強さを物語っている。


 こんなにキツイ言葉なのに、怜が大切なんだと叫んでいる。



 怜は嫌われてなんかなかった。それどころかとても大切に思われている。

 この言葉を直接聞かせてあげたい。


 きっと怜は喜ぶ。

 照れを隠すように彼女を鼻で笑うかもしれないけれど。


 それはとても幸せな世界だ。


 だというのに彼女はわかっていない。

 わかってくれない。


「だからアイツは出禁なんだ。あんな気分もう一生ごめんだ」


「そんなの寂しいよ」


「寂しい?それは正しい人間が抱く感情だろ?僕は…吸血鬼は、そんな感情持たないよ」


嘘だ。


 だって彼女は孤独を理解している。それを苦しいと思っている。

 瞳にそれが映っているのに───。


「あなたは、人間だよ」


「君は本当に明るいところで育ったんだね。はぁ、少なくとも僕は化け物だよ」


嗜めるように彼女は言う。

 そのくせどこか投げやりで、どうでも良さそうだった。


「そんなことない!」


思わず大きな声が出た。


 そんな顔で化け物だなんて言ってほしくなかった。自分を諦めてほしくなかった。

 彼女が自分を痛めつける言葉を選ぶのが辛い。

 それに傷つかなくなってしまっているのが許せなかった。


 なのに。


「傷がすぐ治って人間の血しか受け付けないヤツが人間だって?馬鹿げてるよ。誰に聞いたって化け物だって言うだろうね」



 言い返せなかった。



 化け物だと思ったわけじゃない。ただ、彼女を納得させられるような言葉が思い浮かばなかった。

 だから、ただ小さな声で「そんなことないんだよ」と繰り返すことしかできなかった。


 私は真実の前で無力だった。






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