二章
朝がこんなに待ち遠しかったのは久々だ。
私は朝起きてすぐに彼女に思いを馳せる。
私はあんなに美しい人に初めて出会った。
昨日の高揚を思い出して、まだ心が震えている。
けれど、と一方で思う。
昨日から私の胸はずっとざわついていた。
冷静に思い返すと彼女はとても危うい人に思えた。
今にも死んでしまいそうな表情が痛い。
そう考えているとなんだか寒いような気がしてくる。
震え出しそうな程冷えた体にこれが体温調節かと納得しながら困っていると、昨日と同じようにノックが響いた。
「起きてるわよね」
そんな言葉で無遠慮に部屋に入ってきた怜は私の顔を見てギョッとした。
「アンタ真っ青じゃない!」
慌てて近寄ってきた怜が私の頬に触れる。
火傷しそうなほど熱かった。
怜はすぐに手を離して、手を擦っている。
そんなに私は冷たいのだろうか。
「深呼吸しなさい。できるだけ頭を空っぽにするの」
言われた通りに大きく息を吸う。
けれど、どうにも頭から彼女を追い払う事ができない。
「あぁ、もう!私の目を見て」
怜の目を見つめる。
見ていると思考は怜のことに傾いていった。
そういえばどうしてここにいるのだろう。偶にしか来ないと言っていたのに。
不思議に思っていると、怜の手がもう一度伸びてくる。
怜の手は丁度いい温かさで気持ちよかった。
「はぁ…。おかしいと思ったらすぐナースコールしなさいよ」
大きく溜息をついた怜はじっとりと私を睨んでいる。
私はそれに苦笑を返すことしかできなかった。
「もうわかったと思うけど、感情につられて体温が変わるのがアンタの能力よ。訓練すれば操れるようになるでしょうけど、今は心を落ち着ける練習をしなさい」
キツく言われて、本当に危なかったんだとぼんやり思う。
死にそうな気はしなかったんだけどな。
甘いことを考えた私に、怜からお叱りの言葉がとめどなく降ってくる。甘く考えすぎだと言われたけれど、あまり自覚はなかった。
このままだといつまでも怒られそうなので、私は話を変えることにした。
「怜ちゃんはどうしてここにいるの?」
「最低限必要なものを持ってきてやったのよ」
渡された袋を見ると、そこには新品の服やスマホの充電器、飲み物やお菓子なんかも入っていた。
「足りないものは、コンビニがあるからバーコード決済とかで買えるでしょ」
明らかに最低限以上のものが入っている。
最低限でもありがたいのに、こんなに気にかけてくれるなんて怜の優しさに胸がいっぱいになる。
もしかして世話焼きなのだろうか。
「アンタ、なんか失礼なこと考えてるんじゃないでしょうね」
「そんなことないよ。怜ちゃん優しいなって」
「それが失礼なことだって言ってるの。鳥肌が立ちそうだわ」
優しいと言われるのが嫌だなんて珍しい人だ。
一般的には褒め言葉だと思うのだけれど。
私の考えに気づいたのか、怜はまたため息をついて今度は背を向けた。
「じゃあ、私帰るから」
「待って!」
私は慌てて怜を呼び止める。
昨日の彼女について聞きたかった。
「何よ」
「聞きたいことがあるの」
怜は私の言葉で戻ってくると、椅子に腰掛けた。ちゃんと話を聞いてくれるようだ。
こういうところが優しいと思うのだけれど、本人に自覚はあるのだろうか。
「昨日の夜、中庭に行ったんだけど、そこですごく美しい人に会ったの。名前は聞けなくて…怜ちゃん知ってる?」
「…ほんとに会ったの?」
「キラキラしてて本当に美しい人だったの。私もう一度会いたくて」
怜は苦虫を噛み潰したような顔をしている。
知り合いであることは間違いないようだ。
けれど、この反応…仲が悪いのだろうか。
「忘れなさい」
咎めるような声に聞こえた。まるで忘れないことは罪であるかのような。
「嫌だよ。寂しい人を放っておけないよ」
「そう…。アンタも魅入られたのね。哀れだわ」
怜は感情を押し込めて平坦な声音になった。
けれど、奥には苛立ちや諦めのようなものが見えた気がした。
心配してくれているのだろうか。
「怜ちゃん大丈夫だよ。私は結構強いんだよ?」
冗談めかして言ってみると、「わかるわ」と小さく返ってきた。
「アンタおかしいものね」
「そんなことないよ?いたって普通だよ」
思わず笑うと頭が痛そうな素振りをされる。
そんなに私は変な人間なのだろうか。
これでも学校ではいい子で通っているのだけれど。
「あ、そういえばもう一つ聞きたいの。彼女の口元に何かついてたんだけど…何かわかる?」
「ほんと?見間違いじゃなく?事実なの?」
「え、うん」
「アイツ…!」
怜は真剣な顔でまくしたてる。
ひどく怒っているようだった。
どうしてそんなに怒っているのだろう。
それは何かまずいことなのだろうか。
「っ、いいわ!あの馬鹿に会わせてあげる」
気が変わったらしい怜は、彼女がいる部屋の場所を教えてくれた。ただ、夜に尋ねる方がいいと言われた。
理由はわからないけれど、それに頷いて怜を見送った。
そういえば名前を聞き忘れてしまった。
まぁ、今から会えるからいっか。
◆◆◆
その日の夜、私は教えてもらった部屋の前で深呼吸をしていた。
やっと彼女に会える。
はやる胸を落ち着けるように息を吸ってゆっくりと吐く。
心を乱すことなく、彼女と話したい。彼女のことをちゃんと知りたい。
そして、名前を教えてもらえたら完璧だ。
コンコン、と扉をノックして中の反応を窺う。
怜にはいきなり入ればいいと言われたけれど、それが許されるのは怜だからだろう。
「誰」
くぐもった声が聞こえる。
扉の前まで来てくれたらしい。
「あの、日和です」
そう答えると、扉がゆっくりと開いた。
「入りたければどうぞ」
彼女は面倒そうにそう言って中に入ってしまった。
あまりにもあっさり言うものだから、私は呆気にとられてその場に立ち尽くした。
「入らないなら帰ってくれる」
「っ入る!」
私は慌てて中に入り、扉を閉めた。
中は私の部屋よりも広く、そして殺風景だった。あるのは本だけで生活感がまるでない。
見舞いにありがちな花も、部屋に備え付けてある冷蔵庫もないのだ。
もしかして、私と同じようにここに来たばかりなのだろうか。
「それで何の用?」
嫌そうに問うくせに目で椅子を勧められたので素直に座った。
嬉しくて胸がくすぐったくて笑うと、眉を顰められる。
「あなたに会いたくて来たの」
彼女は「はあ」と気のない返事をしている。早く帰ってほしいと言いたいのだろう。
けれど、部屋に入れて、あまつさえ椅子まで勧めるのだから本心はきっと違う。
彼女は人に飢えている。
「もっと仲良くなろう?」
「仲良くねぇ…。見知らぬ人間がいきなり訪ねてくる時点で仲良くもクソもないと思うけど。…そもそも、なんでここに来られたの?」
彼女は理解不能だと言いたげにこちらを見ている。
それに少し申し訳なく思った。
これが常識的に考えて失礼だということはわかっていた。けれど、怜は間を取り持ってくれる気はさらさらないようだったし、彼女の名前すら知らない私は約束を取り付ける手段がない。
だから、仕方がないことだった。どうか許してほしい。
それはそれとして、この場所に来ることはそんなに難しいことなのだろうか。
「怜ちゃんが教えてくれたの」
「アイツが?気でも狂ったのか?」
酷い言いようだ。
あまりにも馬鹿にしたように言うから少し胸が重くなる。
けれど、怜を嫌ってそんな言葉を言ったわけではないだろうと希望的観測が頭に浮かんだので、苦笑を浮かべるにとどめた。
「てことは、久世の人間か?」
彼女の表情がサッと消えた。
先ほどまでとは違って、追い出そうという気持ちが強く感じられる。
怜とではなく怜の家と仲が悪いのだろうか。
だとしたら、この広い病室といい、もしかして、彼女もいいところのお嬢様だったり…。
「私は怜ちゃんのただのクラスメイトだよ。それで、雪女なんだって」
彼女の正体については一度置いておいて、怜との関係ををおかしそうに話すと、彼女は体から力を抜いて脱力した。
なんだかとても疲れているように見えた。
「そうだ。アイツが家の人間を寄越したりするわけない。わかってるんだけどな…」
小さく呟いた言葉は懺悔するようで痛い。
そこまで心苦しく思う出来事には思えない。けれど、彼女は疑った事が許せないようだった。
きっと怜がこれを聞いたって怒らないのに。
「大丈夫?」
柔らかく尋ねる。
私は決して敵ではないと知ってほしい。
彼女にどんな障害が立ちはだかっているのかわからないけれど、どうしても力になりたかった。
だから、私は彼女の本心が知りたい。話してもらえる相手になりたい。
「大丈夫でしかないよ。…というか君、雪女って言った?」
「言ったよ」
「それって最近わかったんだよね?君のこと見た記憶ないし」
「昨日知ったんだ」
彼女はじっと私を見たまま動かなくなってしまった。
そんなに変なことを言っただろうか。
今日は変な目でばかり見られる。
けれど、首を傾げて考えるもさっぱり分かりそうになかった。
仕方なくどうしたの?と問おうとした時に、宇宙人を見たかのような顔で彼女は口を開いた。
「何でそんなに普通なの」
普通…。
そもそものところ、先祖返りとはそこまで慌てることなのだろうか。
だって、よくわからない付属物がついただけで、自分というものが変わるわけではない。
それになにより。
「雪女だってわかったからあなたに会えたんだよ?だから、怖いことなんて何もないよ」
そう。彼女に会えたそれだけでもう他のことはどうでも良くなってしまっている。
私って単純だ。
クスリと笑いが漏れる。
そんな私を見た彼女は唖然としていて、なんなら口も開いている。
その表情がとても幼く見えて可愛かった。
その表情はいつまで経っても眺めていられそうだったけれど、話してもらえないのは寂しいので、私は言葉を続ける。
「それにほら!偶々雪女だってわかって、偶々夜中に目が覚めて、偶々散歩して見つけた中庭で、偶々あなたに出会った。こう聞くとすっごく運命的でしょう?」
笑いかけると彼女は目を逸らした。
「君はとても真っ当に生きてきたんだね。僕とは関わるべきじゃない人種だ」
自嘲にも満たないような相貌で顔を歪めた彼女は決してこちらを見ない。
それがこれ以上踏み込んでくれるなと言っているようで。
だから、今日のところは何も言わない。
親しくない人間が心に踏み込むことは傷つけることと同義だ。
だから、今は何も聞かない。聞けない。
けれど、いつか。
私に心を許してくれる時が来たならば。
苦しさを教えてほしい。
そして、幸せへの一歩になりたい。
「私は明日もここに来るよ」
彼女はこちらを見ない。
けれど、明確な拒絶の言葉もない。
「…昨日も言ったけど、全部忘れてもう来ないでほしいんだけど」
「嫌だよ!毎日くるから。それで、いつか名前を教えてね」
「名前を聞けばもう来ないの?僕は」
「待って待って!ダメだよ!あなたが名前を知ってほしいって思うまで聞かないから!」
彼女は面倒そうに私を見つめる。
けれど、また目を合わせてくれただけでもう満足だ。
彼女を知るのは少しずつでいい。
踏み込むタイミングは間違えてはいけない。
だから、毎日彼女に会いにくる。
そうすれば、きっといつかは寂しくなくなるはずだから。




