十章
あの日、ゆらの母親は最終的には私たちの願いに何も言わなかった。
否定的な言葉もなかったけれど、肯定的な言葉もない。ただ、「帰ってください」と一言呟いて、私たちを意識から締め出した。
だから、外に向かう時、二人はとても複雑な顔をしていた。
きっとゆらの母親の気持ちを少し理解できるようになってしまったからだ。
だから、ゆらの母親の意思は変わることがないと思っている。
確かに、ゆらの母親の中には握りつぶす理由があって、現状に満足していたのかもしれない。
けれど、私は今日会いにきたことで良い方に転ぶと確信していた。
それは正しかったようで少しして、あの研究は再開されることになった。
元々能力を無くしたいと思っている人も多かったようだ。
私は真っ先に治験に手を挙げた。
その話をゆらにすると苦虫を噛み潰した顔で叱られた。
「前から思ってたけど自分を大切にしろ」なんてゆらだけには言われたくない。
そんなゆらは最近スマホを手にした。
今まで世界を遮断していたゆらだけれど、燿と話してから少しずつ変わり始めていた。
連絡先を交換した怜や燿とよくやりとりをしているようだ。
まだ自分から行動を起こすことは難しいようだけれど、それでも呆れたフリをしながら返事をしている。
それが少し怜に似ている気がして、私は毎回こっそり笑っている。
胸が温かさでいっぱいでニヤける私は怪訝な表情で見られていた。
けれど、そんなもの全く気にならなかった。
それはみんな似たようなものだったというのもあったけれど、何よりゆらの変化が胸を苦しめるほど嬉しかった。
ゆらが少しずつ、自分の心が動くことを許せるようになっているのを肌で感じて、心が溢れてしまいそうだった。
流石にゆらの前で泣くことはしなかったけれど。
そんなある日、もうすぐ薬ができそうだと電話がきた。
その時私はゆらと一緒にいて、隣でそれを聞いていた。
ゆらは切れたスマホを眺めている。
その横顔からは何も読み取れなかった。
久々に見た何の色もない表情は私の恐怖を煽るのに十分で、胸が嫌な音を立てていた。
目を離してしまうのが怖くて、ゆらをじっと見つめる。
そこでゆらの手が少し震えていることに気がついた。
「あの、ゆらちゃん」
ゆらの気をそらしたくて反射的に名前を呼んでいた。
ゆらはゆっくりとこちらを見て、そして口角を上げた。
下手くそな笑顔は私を安心させるためのものだった。
「ちゃんと嬉しいよ」
きっと嬉しさ以外の感情もたくさんあっただろう。
苦しかった今までを思えば、悪い感情だってたくさんあるはずだ。けれど、それをおくびにださないように飲み込んでいる。
やっていることは今までと同じだけれど、意味が全く違う。
ゆらが周りを見始めた。
拒絶するためではなく、人の心を守るために。
それがこんなにも胸を熱くする。
今まではゆらの前では泣かないでいられたのに、我慢できずに涙がこぼれる。
「日和は泣き虫だね」
「そんなに泣いてないよ」
ゆらの前ではという言葉を飲み込んでそう主張する。
ゆらは今度は自然に笑みを浮かべて自身の目元を触る。
「いつも赤い」
そんなところまで見られていると思わなくて驚く。
ゆらは本来、目端のきく人なのだろう。
周りを見ていたから、殻に閉じこもった。
けれど、ようやく広くて温かい場所に羽ばたける。
「嬉し涙だからいいの!」
照れ隠しに強く主張する。
今のゆらはきっと面白がってくれるはずだから。
けれど、そうはならなくてゆらは急に真面目な顔になった。
何を言われるのだろう。
ドクリと胸が跳ねる。
「日和ありがとう」
意味を理解するのに数秒かかった。
私は感謝をされるほど何もしていないと思う。
私に動くきっかけをくれたのは怜だし、ゆらの心を動かしたのは燿だ。
私はゆらの笑顔が見られただけで満足で、感謝の言葉はもらいすぎだ。
けれど、ゆらは続ける。
「日和に出会わなければ僕の人生は動かなかった。きっと一生」
───だから、ありがとう
その言葉に本当に涙が止まらなくなった。
「ゆ"らぢゃん〜!」
「汚い」
感極まってゆらに手を伸ばすと、ペシッと手を叩かれた。
変わらない素っ気なさが楽しくて、泣きながら笑う。
呆れたように、けれど楽しそうに、ゆらも笑っていた。
ゆらが微笑んでくれたらなんだってできる。
そんな風に思う自分が結構好きで、ゆらちゃんに伝える。
「こちらこそありがとう!」
私は果報者だ。
今、とてもとても幸せだ。




