九章
目の前に広がる屋敷は庭園と呼んでもいいほどの大きさだった。
私、怜、燿の3人は九条本家に来ていた。
思っていた以上の大きさで、身震いをしながら気合を入れる。
「いつ来てもここは息が詰まるわね」
ここは良いところのお嬢さんの怜ですら堅苦しく感じるようだった。
ならば、私なんかひとたまりもないだろう。空気に飲まれないように心を強く持たなければ。
「俺もここは好きじゃねぇな。ゆらがずっとここにいたと思うとゾッとする」
燿の言葉でそうだと思い出す。
そう、ゆらの家なのだ。
ここは広さこそ違うけれど、今の部屋と同じだ。
息が詰まるほどの閉塞感がずっとゆらの世界だった。
そして、燿に出会うまでそれが苦しいとさえ知らずにいた。
ゆらにとっては地獄のような場所だ。
自覚があるのかはわからないけれど。
今、私はそこに立っている。
ゆらの吸血衝動がなくなった時、帰る家はここなのだろうか。
それをゆらはどう思うのだろう。苦しいと思うだろうか。それとも、平気だと笑うだろうか。
どちらにせよ、今以上の苦しさはないはずだ。
きっとこの世で一番辛いのは孤独だから。
「よし!行こう!」
私たちは家の奥に足を向けた。
ゆらの母親の部屋は屋敷の一番奥に位置しているらしかった。
どれくらい歩いただろう。気づけばシンプルで落ち着いた雰囲気の襖の前までやってきていた。
偉い人なのでもっと煌びやかな部屋を想像していたけれど、違うのはゆらの母親の趣味だろうか。
もしそうなら、とても堅実な人のように思われた。
燿が声をかけて襖を開く。
中にはとても美しい女の人がいた。
流石ゆらの母親だ。人を惹きつける何かがある。
酷い人のはずなのに思わず感嘆の息が漏れた。
「お久しぶりです」
「あぁ、水無瀬の」
さっきの感覚とは裏腹に、あまりの凍った声音に背筋がゾッとした。
そう思っているのは私だけではないようで、燿が纏う空気は硬い。
そんな燿に普段の雰囲気との大きな差を感じて、当主という座の絶対さを理解した。
氷の女王という言葉が浮かんだ。
「それで用はなんですか?大した話でないなら仕事を終わらせたいのだけれど」
部屋の温度が下がった気がした。
私たちは何か失礼なことをしてしまっただろうか。
どうしてこれほどまでにキツイ態度をとられているのかわからない。
それとも、これがいつも通りなのだろうか。
他人を拒絶するようなこの対応が。
「先祖返りの能力を抑制する研究を」
「あんなもの必要ありません」
バッサリと切り捨てられて燿は目を見開いている。
ゆらの母親は私たちの言葉を聞いてくれるつもりがないらしい。
ふとこれは私たちの願いを理解しているからの反応のような気がした。
「それだけなら帰っていただけますか。時間は有限ですから」
そう言ったゆらの母親は私たちから興味をなくしたように机に向き直った。
早く帰れと言いたいのだろう。
あまりにも取り合ってもらえないので、呆然と立ち竦んでしまう。
だって、自分の娘の話だ。きっと私たちが来た時から薄々わかっていたはずなのに…。
涙が出そうなほど悔しかった。
もう過ぎたことだけれど、ゆらが大事にしてもらえなかった事実がここにあることに息が苦しくなる。
この事実に憤っていると、怜がゆらちゃんの母親に声を投げかけた。
「おば様、ゆらに生きてほしいとは思わないんですか」
「何をおかしなことを。生きているじゃありませんか」
ゆらの母親は手を止めない。
私は理解できなかった。
ゆらの母親の態度も、言葉も。
今のゆらを知らないのだろうか。あれほど暗く苦しい殻に籠っている姿を。
知っていたらあれを生きているとは到底選べないはずだ。
「あなたはゆらちゃんに会ってないからそんなこと言えるんです。彼女はあんなにも孤独に溺れているのに」
息をしているだけの人間を生きているとは言わない。心を伴ってこそ人は生きられる。
そんなこともわからない人なのだろうか。
ゆらの母親が許せなくて、私は責めるような口調になっていた。
「会う、ですか」
彼女は手を止め振り向いて、私をまっすぐに見つめた。
瞳には何の感情も写っていない。
気圧されそうだ。
「エサを届けがてらあの子の体調管理はしています。数値は安定していて健康そのものですから、過不足なく生きているでしょう」
そう言い切ったゆらの母親に息を飲む。
これがゆらの世界だとそういわれているような気がした。
「過不足ない…。本当にそうか?俺の血がないと生きられないのに?」
「えぇ。あなたの血はちゃんと適量渡していますので」
顔色が全く変わらない。
あぁ、苦しいよ、ゆらちゃん。
心を凍らせなければ生きていけない世界はどれほど寒いのだろう。
私の悲しみの温度より余程冷たいはずだ。
こんなしんどい世界でゆらが壊れてしまわずに生きてこられたのは奇跡だと思った。
「じゃあ、どうしてゆらをあそこに軟禁しているの?閉じ込めて食事を与えるだけなんてモルモットと同じじゃない」
「あそこから出ればあの子は死ぬでしょう。けれど、あの閉じた世界の中にいれば安全です。水無瀬家の協力がある限りゆらは死なない」
怜が不快に思っているのが伝わってきた。
私はこの一言でゆらの母親のことがわからなくなった。
今までの会話で私はこの母親がまるでロボットのようだと思っていた。
ゆらの感情を全て削ぎ落として、普通なら慈しむべきものを無駄だとどんどん捨てるように教育できる心無い人だと。
そして、多分それは正しい。
けれど、それだけではない。
だって、さっきのセリフはまるでゆらに死んでほしくないみたいだ。
異常な話だけれど、ゆらが死んでもいいと考えていそうなほど冷たい瞳をしているように見えていた。なのに、ゆらに死んでほしくないという。
ゆらの母親の心にあるものは一体なんなのだろう。
「ゆらを当主にしたいから生かしてるんじゃないのか?今の言葉はただ外に出したくないように聞こえるんだけど」
「当主?そんなもの、あの子に吸血衝動が出た時から選択肢にありません。だから、あなたにも打診が行ったでしょう」
「じゃあなぜだ?」
燿のその問いにゆらの母親は間髪入れずに話し出した。
「ゆらは優秀な子でした。先祖返りでさえなければ良い後継者になったでしょう」
彼女はそこで口を閉じた。そして、視線を迷わせる。
それはとても人間らしい仕草だった。
「…」
ゆらの母親は何を考えているのか小さく眉を寄せて口を噤む。
瞳に感情は浮かんでいなかったけれど、それでも感情が存在していることが伝わってきた。
「死んでもらっては困るのです」
その言葉は平坦だった。表情も元の無表情に戻っている。
けれど、私には何かを懇願している声に聞こえた。
「なら、研究のデータを」
燿がもう一度頼もうと口を開いた。
けれど───。
「いいえ。危険な実験を許すことはできません」
さっきまでの迷いは嘘だったかのようにゆらの母親は燿の言葉を切り捨てる。
全員が口を閉じ無音が訪れた。
どうしてそこまで実験を嫌がるのだろう。
確かに初めの実験は危ないだろうけれど、無理矢理握り潰さなければいけないほど拒否感を覚えるものだろうか。
「あの…ゆらちゃんを外で元気に生活させてあげたいとは思わないんですか?」
恐る恐る声を上げた。
ゆらの母親の瞳が僅かに揺れた気がした。
「…そんな生活、あの子の人生にはありません」
「どうして?」
「あの子が吸血鬼である限りまともな人生などないのです」
吸血鬼とはそんなに生きにくいものなのだろうか。
私にとってゆらは人間にしか見えない。
それを簡単に母親が否定する。
ゆらが自分を蔑むのは母親の影響なのだろうか。
それはとても悲しいことだと思う。
「そのための研究だろ」
「治験はとても危険を伴うものです。私はそれを許容できない」
そんなに危ない実験なのだろうか。
ゆらのためだったら私はいくらだって治験者になるのに。成功への道が開かれるまで。何度でも。
「なんでよ。危険性を知っても、ゆらはきっと受けたいって言うわ」
「…」
ゆらの母親はまた黙った。
今度はわかりやすく目を伏せた。
「死なせたくないのです」
驚いてみんな口を閉ざした。
ゆらの母親の本音がこんなところにあるなんて誰も思いもしなかった。
ゆらの母親は一見すると無感情に見える顔で淡々と話す。
けれど、もう私には彼女が何か言葉にできない感情を胸の内に溜め込んでいるのが感じられる。
ゆらに対して決して無関心ではない。
「私はあの子が死ぬのが許せない。母親の情なんてもうとっくに枯れ果ててしまっているけれど、それでも死んでほしくないのです」
この人もきっとゆらにしたように、心を削るように育てられたのだろう。
そんな事実に今気づいた。
だから歪で、まともに娘と交流することもできない。
けれど、母親の情が枯れたというのはきっと間違いだ。
言語化できないだけで、きっとどこかにゆらへの気持ちが眠っているはずだ。
でなければ、ここまで研究を嫌がったりはしない。
きっと話し合うことさえできれば私たちが争う理由なんてない。
みんなゆらのことを思っているのだから。
「お母さんはゆらちゃんの笑った顔が見たくありませんか?」
ゆらの母親は、お母さんと呼びかけられたのも相まって困惑している。
「ほら、みんなで協力して研究を完成させましょう?危ないところは私が引き受けますから!」
それに笑いかけて、私はゆらの母親の手を握った。
きっとゆらの母親だって幸せなゆらを見たいはずだ。
だから、きっと協力してもらえる。
目指す場所はきっとみんな同じだ。




