八章
私は今、ゆらの部屋にいた。
そして、追い出されないように何食わぬ顔をして時を待っている。
ポケットに忍ばせたスマホをギュッと握る。
あり得ないくらい早く刻む心臓を落ち着けようと、いつもよりも深く呼吸をしていた。
少し口を開いてまた閉めて、唾を飲み込んでまた開く。
震えてしまいそうでなかなか声が出せない。
あまりにももだもだしていたからだろう、ゆらがこちらを見ていた。
「何かあるの」
直球で投げられた言葉に覚悟を決めた。
「一つお願いを聞いてほしいの」
「嫌だね」
バッサリと切り捨てられる。
けれど、そう言われることはわかっていた。だから、気にせず続ける。
「聞いてくれたらゆらちゃんのお願いも聞くよ。ここに来るなって言うならもう来ないから、だから」
───私の願い事を聞いてほしい
祈るような気持ちでそう言った。
断られることはないと思っている。
ゆらはなんだかんだ優しいから、私の願いを受け入れてくれる。
けれど、もし違ったらと思うと体が震えてくる。
冷たくなった息を吐いて、私はゆらを見つめた。
「…そういうことなら、まぁ」
「ほんと!ありがとう」
飛び上がりそうなほど嬉しくて、私はゆらの手を握った。そして、すぐ振り払われた。
しょんぼりしてしまう。
けれど、本題はそこではない。気を取り直して私は言葉を紡ぐ。
「今から私が部屋を出るまで、何が起きても最後まで話を聞いてほしいの」
ゆらは答えなかった。
けれど、それは肯定だった。
素直に頷くのが恥ずかしいのか、私から目を逸らしている。
その姿に笑みがもれた。
この瞬間。
きっと悪いようにはならない。
そんな気がしたから。
そんな風にゆらを眺めていると、私のスマホがピリリと鳴った。
私はすぐさま通話ボタンを押した。
『もしもし』
スピーカーにしているスマホから燿の声が聞こえる。
私はスマホをゆらに渡して、邪魔にならないように黙った。
「は…?」
ゆらはスマホを凝視して固まっている。
『聞こえてるか、ゆら』
「よ、うくん…?」
名前を呼ばれてなんとか返事をしたゆらは、けれどそれ以上何も言わない。
まるで言葉を失くしてしまったかのように息を漏らすばかりだった。
『そうだよ。ふはっ、そんな情けない声、初めて聞いたわ』
燿はいつも通りの声音で揶揄うように笑っている。
まるで昨日も会ったかのような軽い態度に、燿の優しさが見えるような気がした。
重い空気は苦しさを運んでくるばかりだから。
「なんで」
『なんでって、俺はお前に会いたかったんだよ。死んだ顔してねぇかなっていつも心配してたんだからな?』
燿の言葉は依然軽い。
きっとゆらの心を守るためだろう。
けれど、言葉の端々に堪えきれない激情が滲んでいるように感じた。
そんな燿は今にも泣き崩れてしまいそうなのではないかというイメージが浮かんだ。ゆらは気づいていないけれど、燿はゆらの声を聞くだけで胸がいっぱいなはずだ。
もし私が燿ならばそう思う。
「燿くん…本物…?」
『まだそこかよ。俺以外にこんな親しい奴なんていないだろ?』
「そうだけど。…でも、僕のことは知らないはずで」
『知らなかったよ。お前が九条の吸血鬼なんてこれっぽっちもな。この前、そこにいる朝霧さんに教えてもらったんだ』
ゆらはバッとこちらを見た。
その目は、余計なことを!という感情で溢れていて、苦笑を返すことしかできない。
私の行動は今のゆらからすれば、全て欲しくないものだろう。
私のエゴなのだからそれはわかっている。
けれどこれはいつか、ああしてよかったと思える選択のはずだから。
私は謝ったりしない。
『さては余計なことすんなって思ってるだろ、お前。でもさぁ。俺は知れてよかったよ。てか、逆になんで言わねぇんだよ。俺そんな頼りないか?』
いじけたような燿の言葉にゆらは目を彷徨わせる。
こんなゆら初めて見た。
そして、こんな風に拗ねている燿も初めて見た。
きっとゆらの前でだけ見せる顔なのだろう。
「頼りないなんて思ってないよ。僕にとって燿くんは道標だったから。けど、言ったら燿くん僕に命を捧げると思ったんだ。だから…言えないよ」
ゆらの言葉に燿は少し黙った。
そして、堂々と言い切った。
『確かにな』
驚いて声を出しそうになった。
普通は否定するところではないだろうか。
一緒に生きる方法を模索したり、相手が生きていればそれでって、そう思うことが正しい答えである気がする。
けれど、燿は肯定した。
この答えはゆらにとって、きっと悲しいものだ。
だって、命を軽々と渡してしまう行為は相手に対する裏切りだ。大切にしてほしいと思っているのに、傷つけたくない人が自ら傷ついていくのだから。
ゆらは他人のことを言えた義理ではないけれど。
二人の再会はとても幸せなもののはずなのに、雲行きが怪しくなっている。
あぁ、悲しい。
『けど、もうそれは選ばない。だから心配するな。ちゃんと顔を見て話せるようにしてみせるから』
「何言ってんの?できるわけないよ。そんなこと」
『できるさ。俺が…というか朝霧さんが解決できる可能性を見つけてくれたから。だから、楽しみに待ってろ』
燿は不敵に笑っているのが想像できる声でそう言った。
ゆらは目を見開いて固まってしまっている。
今の私には燿がとてもカッコよく見えていた。
きっとゆらにとって燿はヒーローだ。真っ直ぐで、誠実。
ゆらの言った通りだった。
なんだか胸が熱くなる。
早く二人を会わせてあげたい。
『ゆら。今度こそ一緒に生きよう』
その言葉を聞いてゆらは涙をこぼし始めた。ポタポタと地面に水滴が落ちる。
ゆらは泣いていることに気づいていないようだった。
拭うこともせずに両手はスマホを握りしめている。
「…うん」
小さくて、けれど、はっきりとゆらは答えた。
声は震えていたし、逃げ出したいほどの恐怖を抱えているのに、それでもゆらは逃げなかった。
これはとても大きな一歩だ。
ようやくゆらは歩き出すことができる。
『言ったからな。約束だぞ!じゃあ次は直接な』
そう言って燿はあっさりと通話を切った。
またいつでも話せることを示したかったのだろう。きっと断腸の思いだったに違いない。
ゆらはスマホを見つめたまま小さく問いかける。
「本当にまた会える?」
きっと信じきれないのだろう。
無理もない。
今まで死こそが全てだと思っていたのだから、いきなりもう大丈夫と言われても心が追いつかない。
けれど、一方で手放しで信じてしまいたい気持ちもある。裏切られるかもしれないけれど、それでもと。
だから、口に出して確かめる。
返事を聞いて安心したいのだ。
「もちろんだよ!」
私は大きく胸を張って答えた。
ゆらに信じてもらえるように。そして、この言葉を絶対に嘘にしないと心に誓って。
「……うん」
ゆらはまるで迷子のようにおどおどと頷いたのだった。




