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亡き夫と十七歳で再会しました~無愛想な彼に、今度は私から恋をする~  作者: 熾星


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9/20

こんなふうに優しくされたことはない

「大きな街は、暮らしにくいね。来たばかりなんだから、面倒な人に会っても、できるだけ我慢して。かっとなって、何か起こさないでね」


 美津子は千紗を抱いて立ち上がった。額の後れ毛が汗で頬に張りついていた。蒼介は三輪屋台のスタンドを足で上げ、淡々と返事をした。


 母はそばに立ち、油汚れのついた白いシャツを見ていた。背が高く、痩せてはいるが、肩幅はもう十分にある。家の重い物は、いつも彼が運んでいた。千紗が生まれてからは、器に少しいいおかずがあれば、まず妹に譲った。


 同じ年ごろの子は、まだ親に甘えたり、口答えしたりしている。けれど自分は、息子が最後に笑ったのがいつだったか、思い出せなかった。


「帰ったらシャツを脱いで。お母さんが洗っておくから。これからは私ひとりで店に出るよ。蒼介と千紗は、家で宿題をしていて。水を飲むのを控えれば、あんな遠くまでトイレを探しに行かなくて済むし」


 彼は答えず、畳んだ雨よけを低い位置へ置き、視界を遮らないようにした。


「今日は、どんな様子か見に来ただけだものね。二日も引っ越しで、みんな疲れたし。早めに片づけて、ちょうどいいね」


 屋台の下の灯りが消された。蒼介は通りの入口を見た。


「千紗を連れてバスで帰って。俺はこれに乗って帰る。通りを出て右。二十三番で、六つ目」


 美津子は息子の腕へ目をやった。


「手、まだハンドルを握れるの? この前、先生が――」


「もう感覚ないから。あのバス、終わるの早い。今行かないと間に合わないよ」


 母は口を開きかけ、娘を抱き直した。少し進んでは、何度か振り返った。


◇


 母娘の姿が消えてから、蒼介は袖をまくった。布が水ぶくれに貼りついていた。無理に剥がすと、皮膚まで少し破れ、夜の中に鮮やかな赤い傷口が現れた。


 近くに水道はない。屋台の下から飲料水のタンクを持ち上げ、蓋を開けて、右手へゆっくり注いだ。一晩中コンロの熱を受けた水は、体温より少し低い程度だった。傷の上を流れ、油や血を洗い落としていく。空気にかすかな鉄錆の匂いが漂った。


 あの二万円を、自分に使うつもりはなかった。痛いかどうか、楽かどうかは、いつだって大した問題ではない。ただ、傷が化膿すれば面倒が増える。彼は面倒が、何より嫌いだった。


 ひどくやけどをした小指と薬指が、曲がっていた。しばらく見つめ、力を入れてみたが、やはり伸びなかった。昨日もそうだった。明日も、おそらく変わらない。


 半年前、警察官に付き添われて病院で検査を受けた。尺骨の粉砕骨折と神経損傷。砕けた骨は、金属のプレートとねじでつなぎ直された。それから右手の二本の指が伸ばせなくなり、手首の動きも制限された。皮膚の一部は、厚い手袋を隔てているようで、熱さも痛みもわからなかった。


 診断書は、その後、事件の証拠のひとつになった。あの人には三年の刑が言い渡された。その代償に、文字を書き、働くための右手は、もう元に戻らなくなった。


 蒼介の考えは単純だった。手は二本ある。一本駄目になっても、もう一本が残っている。左手を使いこなせるようになるのは、時間の問題だ。千日あまりの平穏が得られ、高校卒業まで持ちこたえて、母と妹を連れてもっと遠くへ行ける。どう考えても、損ではなかった。


 それに、幼いころから傷の治りは早かった。痣も早く消え、どんなに深い傷も、少しずつかさぶたになる。こういう体なのだから、ほかの人より、ずいぶん手がかからない。


 タンクの水が底をつきかけたころ、蓋を戻した。そこへ、せわしない靴音が聞こえてきた。


「……待って。まだ行かないで。渡したい物があるの」


 少女は、ずっと走ってきたようだった。白い顔を真っ赤にし、こめかみの髪を汗で濡らして、両手に大きな袋を二つ提げていた。立ち止まってしばらく息を整え、むき出しの右手へ目を落とすと、小さく息をのんだ。


 また戻ってくるとは、思わなかった。


 その目がためらいながら傷を何度も確かめ、やがて伏せられた。


「……四万、もらっておけばよかった」


 袋を屋台の台へ置いた。ビニールの持ち手で、指の関節に赤い跡がついていた。いろいろな色のラベルがついた水を、一本ずつ取り出していく。銘柄さえ揃っておらず、何本かはガラス瓶のエビアンだった。


「調べたら、氷水で直接冷やしちゃいけないって。コンビニ、この時間だと常温の水が少なくて。二軒回ったけど、これだけだった」


 蒼介は目を落として、ひと通り見た。この量を提げて三十分も歩けば、腕が痛くなる。大切に育てられた目の前の少女に、どこからそんな力が出たのだろう。


 彼女はさらに、薬局の袋から品物を取り出し、ひとつずつ見せた。


「これは傷を洗う生理食塩水。それと、傷を覆うパッド。薬剤師さんが、このやけどは病院で診てもらったほうがいいって。まずは清潔なパッドで保護して、むやみに何か塗らないでって言ってた」


 聞いているか心配するように、ときどき顔を上げた。傷の注意事項が書かれた紙を見つけると、わざわざ折れた角を伸ばして、彼の前へ置いた。


 走ったせいで、まだ赤いその顔を、蒼介は見ていた。声が、信じられないほど優しかった。痛みの話になると、眉を寄せる。小さな子どもをなだめているようだった。


 こんなふうに話しかけられたことが、あっただろうか。母が妹を寝かしつけるときでさえ、これほど柔らかくはなかった。


 声が夜風に運ばれ、耳元から入り込んでくる。小さな蟻が這うようで、むずむずして、体じゅうが落ち着かなかった。


 彼女は少し待ち、返事は期待できないと思ったのか、品物を小袋へ戻した。それから買い物袋の底へ手を入れ、値の張る輸入の傷痕ケア用品を一箱取り出した。薬局で貼られた「傷が治ってから使用」のラベルを、外へ向けて置いた。


 その箱を手に持ったまま、視線を彼の袖口で少し止め、すぐにそらした。それから猫の顔が描かれたフルーツグミと一緒に、彼の前へ押し出した。


「グミは、おまけでもらったの。痛かったら、二つくらい噛んで気を紛らわせて。好きじゃなかったら、妹さんにあげてもいいし」


 袋の猫は、泣いていても笑っていても、どこかそっけない顔をしていた。蒼介はしばらく眺め、それから少女を見た。


 通りの入口では、車がもう何周もしていた。修平は駐車できる場所を見つけられず、とうとうクラクションを二度鳴らした。


「水、ちゃんと使ってね。説明も読んで。そろそろ戻らないと、おじさんに言いつけられちゃう。じゃあね」


 最後にもう一度彼を見上げ、身を翻して車へ小走りに向かった。男が降りてドアを開けた。重い黒いドアが閉まり、車は通りを遠ざかっていった。


 彼女が立っていた場所には、まだかすかに、爽やかな甘い香りが残っているようだった。シャンプーか、ボディソープか、それとも肌に移った匂いなのか。


 蒼介は目を伏せてしばらく立ち、それから、彼女が握っていたグミの袋を持ち上げた。喉仏が小さく動いた。袋を近づけ、なぜか、その匂いを嗅いでいた。

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