見せてくれない
夏帆は顔を火照らせ、爪を手のひらへ食い込ませて、どうにか踏みとどまった。
「撮ったから。食べたのにお金を払わなくて、そのうえけがまでさせたところ。今払わないなら警察を呼ぶ。動画も渡すから」
男が手を伸ばして、夏帆をひと押しした。さらに怒鳴ろうとしたところで、視線が手首のブレスレットに止まった。薄暗い灯りの下でも、その宝石はまぶしかった。白いワンピースや靴だけではわからなくても、このブレスレットの値は見過ごせない。男は手を引っ込め、通りのほうを見た。
「夏帆、そっち行こうか?」
ベントレーを停められず、修平は窓を下げて、刺青のある腕を外へ出し、クラクションを二度鳴らした。夏帆はそちらへ手を振り、向き直った。男はもう、顔をこわばらせてスマホを取り出していた。
「今日はついてねえ……」
送金を知らせる音がした。男は道端の空き缶を蹴り飛ばし、見物人にひと声怒鳴ってから、悪態をつきながら抜けていった。人だかりも散り、向かいの店の宣伝放送だけが繰り返されていた。その騒がしさが、かえって通りの端をがらんと感じさせた。
三崎家の屋台は、商店街のほぼ突き当たりにあった。もともといい場所ではなく、こんな騒ぎのあとでは、もう商売を続けられない。風に電球がかすかに揺れていた。蒼介は手の甲についた油や汁を布で拭い、ガスを止め、コンロの野菜くずを片づけると、夏帆が握ってしわにした決済用の札を元へ挟み直した。
夏帆は、その手を見つめた。自分の体を、いつもこんなふうに粗末にする。前の人生でもそうだった。我慢強いのか、それとも痛みを感じないのか、ずっとわからずにいた。
ゴミ箱は倒れたままで、ミルクティーのカップを捨てる場所がなかった。屋台の前でしばらく迷っていると、彼が左手を差し出した。
「貸して」
「……うん」
渡すついでにつま先立ちになり、下ろされた右手を見ようとした。少し近づいただけで、その手は背中へ隠された。見られてはいけない物を守るようだった。前の人生で結婚指輪を試したとき、夏帆は彼の手を見つめて、ぼんやりしてしまったことがある。それから彼は、ずっと手袋をしていた。
どこを見ればいいのか、わからなくなった。けがを少し見たかっただけなのに、覗いてはいけないものを盗み見たような気分だった。説明しようとするほど、余計なお世話に思えてくる。
そばの女の子が顔をぬぐった。涙も鼻水もまだ拭いきれていないのに、もう顔を上げ、夏帆へ笑っていた。兄妹は同じ、淡い茶色の瞳をしていた。兄の目は冷たく、妹の目は蜂蜜色のガラス玉のように、丸く澄んでいる。
夏帆の心が和らぎ、笑い返してしゃがもうとした。そのとき蒼介が体を起こし、妹の手を引いて、こちらを一瞥した。
腰を落としかけたところで、また立ち上がった。けが人の機嫌が悪いくらいなら、気にせずにいられる。それでも、こうもはっきり拒まれては、いたたまれなかった。午後に会ったとき、ひょっとしたら高校時代から自分を好きだったのかもしれないと、少しだけ考えた。その推測は、今の一瞥でほとんど消えた。
やはり前の人生の結婚は、心当たりのない昔の借りを返させられているようなものだったのだろう。
もうしばらく、その場に立っていた。彼はうつむいて片づけを続けている。夏帆は仕方なく身を翻し、叔父の車へ向かった。さっき振り絞った勇気がしぼみ、胸にぽっかり穴が開いたようだった。手助けをしても、優しい顔ひとつ見せてもらえない。だからといって、けが人に本気で腹を立てるわけにもいかなかった。
◇
蒼介は視界の端で、彼女を追った。人の多い通りを、白い姿が足早に進んでいく。蝶のように、数歩も行かないうちに人影に隠れた。
近づいてくれば、気まぐれなお嬢様が、自分を珍しがっているだけだと思う。なのに、本当にいなくなると、理由もなく苛立った。
屋台の斜め後ろには、小さな机と椅子が置いてあった。机の端には目に優しいライトが挟まれ、さっきまで千紗が宿題をしていた。蒼介は灯りを消して、教科書をピンクの鞄へしまった。妹はまだ背伸びをして通りの端を見ている。後ろ襟をつまみ、自分のそばへ引き戻した。
千紗はむずかるように抗議したが、視線はまだ向こうへ向いていた。
その手をしっかり握った。もう行ったのに、何を見ているのか。
◇
美津子が戻ってきたとき、背後からほかの屋台の店主に声をかけられた。方言が混じり、話すのも速い。手を出した、女の子、やけど。そのいくつかの言葉だけが聞き取れて、慌てて屋台へ走った。
引っ越す前も、地元で焼きそばを売っていたので、商売自体には慣れていた。ただ、ここで店を出しはじめたばかりで、周りの事情がまだよくわからない。トイレを探しに行っただけで、こんなことになってしまった。
息子は雨よけを下ろしているところだった。袖はもう戻され、服に飛び散った油や汁も、大半が乾いていた。足元に立つ千紗は、目の周りを赤くして、兄を見上げて話していた。
美津子はしゃがみ、手のひらの汗をエプロンで拭ってから、娘の顔を両手で包んだ。それから小さな両手を裏返して見た。腕の小さな水ぶくれに気づき、眉を寄せた。
「今できたの? 千紗、痛くない? ほかにけがしてない?」
少女は首を振り、母の腕の中から顔を出して、兄のほうへ母を押した。
「私は痛くない。お兄ちゃんが痛いの」
そこで美津子は顔を上げた。蒼介は妹の鞄を片方の肩に掛け、屋台に寄りかかっていた。表情は普段と変わらない。
「……誰かと喧嘩したの?」
彼は右手を背中へ隠した。
「してない。千紗が大げさに言ってるだけ。何でもない」
美津子の肩から、力が抜けた。
「それならよかった」
越してきて、まだ数日だ。これ以上、揉め事を起こすのが怖かった。息子がそう言うのならと、その言葉にすがるようにして、安心した。




