会うたびに泣きそうになる
音楽大学は、榊野大学の旧キャンパスからそう遠くない。近くの商店街では、夜になると屋台が営業していた。六時から灯りはじめた電球が、今もあちこちにぶら下がっている。一方通行の道には人が多く、車はゆっくりとしか進めなかった。
通りの終わりに近づくと、前方の角に人だかりができていた。夏帆が窓を下げると、生暖かい風に食べ物の匂いが混じり、外の話し声と一緒に入ってきた。
「撮られたくないって言ってるのに、顔にカメラを近づけるなんて。子ども相手に、そこまでしなくても」
「今、そういう貧乏な家のイケメンばかり撮ってる人もいるでしょう。気の毒な感じに撮れば、それだけ同情も集まるし。有名になれたら、商売も繁盛するんじゃない?」
「同級生に見つかるのが嫌なんじゃないの。あれ、榊野学園の制服でしょう? 入るの大変なのよね。うちの息子なんて、あんなに塾代をかけたのに落ちたわ」
夏帆はそちらへ顔を向けた。運転席の男にも聞こえたらしく、人混みへ何度か目をやった。
「若いイケメン店主なんて、仕込みも多いんだぞ。俺も昔、飲食をやってたからな。本当に同級生とは限らないだろ。制服くらい、誰だって買える。あんな学校に子どもを通わせる親が、こんな苦労をさせるかよ」
修平はバックミラーに目をやり、夏帆が眉を寄せているのを見ると、手を振った。
「そういうのは嘘が多いんだ。放っとけ」
車が少しずつ進み、騒ぐ声がはっきり聞こえるようになった。このころは、店を回って紹介動画を撮ることで生計を立てる人は、まだそれほど多くなかった。けれど周囲の話に出てくるその男は、すでにアカウントの知名度を笠に着て、店にちやほやされるのが当たり前になっているらしかった。
焼きそばの屋台の前で、太った男が酒に赤らんだ顔をしていた。声は太く、大きかった。
「お前、いくつだ? 焼きそば売ってる分際で、俺にそんな態度取るのかよ。俺の動画、二十万人が待ってるんだぞ。上げたら、お前、この榊野で商売できると思ってんのか?」
「撮ってくれって頼んでくる店が、どれだけあると思ってるんだ。それをスマホ取り上げようとしやがって。この機材、いくらするか知ってるか? お前んち全員売り払ったって、弁償できねえぞ!」
返事はなかった。男がゴミ箱を蹴り倒し、卵の殻や野菜くずが散らばる。近くの人たちは、後ろへ下がった。
「もう一度、逆らってみろよ。素性、全部洗ってやるからな!」
夏帆は窓から顔を半分出し、コンロの向こうにいる人を見て、胸がきゅっと縮んだ。
蒼介だった。
ガスの火で、空気がかすかに揺らいでいた。電球の光は黄色く、薄暗い。彼の額には汗がにじみ、放課後と同じ白いシャツを着て、袖口は手首まで下ろされていた。マッシュルームカットの小さな女の子が背後に隠れ、脚にしがみついて、声を抑えて泣いていた。
「豚肉と卵入りで、六百円です。QR決済もできます」
電球のそばに挟んだ決済用の札を指し、視線は鍋へ向けたままだった。太った男は口を開け、信じられないという顔をした。
「まだ俺から金取る気か?」
蒼介が鍋をあおると、コンロががたんと鳴った。
「払ってください」
男が屋台を突き、雨よけがばさばさ揺れた。コンロの裏へ回って襟をつかもうとしたが、空を切った。そこで少年がうつむいた隙に、わざと肘を鉄鍋へぶつけた。
背中にはまだ妹がくっついていた。半袖から出た腕が、むき出しになっている。蒼介は右手を伸ばして鍋を支えた。熱い油と焼きそばが縁からこぼれ、そっくりその手に降りかかった。
人だかりから、息をのむ音がした。彼はただ、左手で妹の目を覆った。声は、ぞっとするほど落ち着いていた。
「これで払ってもらえますか」
太った男が、一歩退いた。
「お前が勝手に手ぇ震わせただけだろ。みんな見てたからな。俺のせいにすんなよ!」
近くの屋台の客も集まってきた。何があったのか尋ねる人、つま先立ちで中をのぞく人。押し合うように人が増えても、コンロのある側へ入っていく人は、なかなか現れなかった。
夏帆は喉が詰まった。家が貧しいことも、成績がずっとよかったことも知っている。ほかの土地から転校してきて、ずっと年の離れた、千紗という妹がいた。けれど当時、何で生計を立て、どんなことを経験していたのか、彼が話してくれたことはなかった。
手を油で汚し、人前で罵られている少年と、後年、高い地位に就いた男。その間には、自分が一度も見ようとしなかった、長い年月が横たわっているようだった。
騒いでいた男が、人混みを抜けようとした。夏帆は何も説明する余裕もなく、助手席のミルクティーを持って車を降りた。数歩で屋台の前まで駆け寄り、中身を全部浴びせた。これまでは大切に守られ、こんな街頭の揉め事を間近で見たことさえない。酔った男とひとりで向き合うなんて、なおさらだった。けれど、もうここに立っている。車へ戻って、彼がいじめられるのを見ているのは嫌だった。
氷が襟の中へ滑り込んだ。男は罵声を途中で止め、顔を拭いながら振り向いた。顎にはタピオカがくっつき、周囲の視線まで夏帆へ集まった。
風が長い髪を乱した。空のカップが、手の中でぱきぱき鳴る。ふくらはぎは震えていたが、もう一歩前へ出て、高いところにあった決済用の札を外した。
「……治療費、払って。二万円。今すぐ」
◇
蒼介は目を上げた。黄色い灯りの下に、新しく隣の席になった少女が立っていた。唇を固く結び、毛を逆立てた子猫のようだった。
空のカップを握る様子からして、こんな相手に立ち向かうのは初めてなのだろう。目は水の膜を張ったように光っていて、今にも泣きそうだった。午後の教室でも、同じだった。あんなに怯えているくせに、どうしても袖を放さなかった。
どうしてこの子は、自分に会うたび、泣きそうな顔をするのだろう。




