俺にくれたもの
九月の榊野では、街路樹から黄色い葉がぽつぽつ落ち始めていた。それでも、まだ暑い。三輪の屋台をこいで細い路地へ戻ったころには、蒼介の背中は汗でびっしょりだった。
右手に力が入らないので、手のひらの付け根をハンドルへ押し当て、できるだけ手首を動かさずにいた。ブレーキも、まだ曲げ伸ばしできる人差し指で引くことを覚えた。こうした乗り方は、自分で少しずつ工夫した。母を残して手間取らせるより、そのほうが都合がよかった。
屋台を停め、通路の荷物を避けながら四階へ上がると、ちょうど大家のおばあさんがトイレへ出てくるところだった。古い共同住宅で、各階には数世帯しかなく、台所も浴室もトイレも共用になっていた。廊下の外壁には、古い電気メーターが並んでいる。
榊野へ来て一週間あまり。ここは、二か所目の住まいだった。最初は安さを優先し、ベッド単位で長期滞在できる安宿に入った。狭い部屋に二段ベッドが六つ詰め込まれ、男女の寝床が同じ空間にあった。
母が妹を着替えさせるときは、薄いカーテンを引くことしかできなかった。その外では、誰かがいつでも扉を開けて出入りする。ここがどれほど古くても、扉を閉めれば、自分たちだけの場所を少しは持てる。
大家に会釈し、鍵を取り出して開けた。部屋は広くない。引き戸の奥が小さな寝室になっていて、千紗は薄い毛布にくるまり、もう眠っていた。手前の部屋は灯りが暗く、母がしゃがんで荷物を片づけていた。音を聞いて、少し体をずらした。
「蒼介、帰ったの? お腹すいてない?」
「千紗を迎えに行ったとき、食べた」
小学校の前にあるチェーン店には、五百円の鶏肉定食があり、ご飯はお代わりできた。妹は肉を食べると満腹になった。その残りの肉のかけらと付け合わせがあれば、白いご飯を二杯食べられた。食事は、腹を満たすためのものだった。選り好みする理由もない。
ピンクの小さな鞄を置き、母の隣にしゃがんで、畳まれた古着を収納へ運んだ。大きな山になっていたが、ほとんどは母と妹の秋冬の上着やセーターだった。自分の制服は数着だけ、上に重ねてあった。前の学校のものと、今日受け取ったもの。
寝具は収納の上へ置く必要があった。美津子なら踏み台に乗らなければ届かない。蒼介は立ち上がって、腕を上げるだけで置けた。
「今日は、学校でうまくいった? 転校の手続きは全部済んだの? 学校の人に、嫌なことをされたりしなかった?」
「済んだ」
収納の扉を閉めて、振り向いた。母はほっとしたように、さっき荷物を押さえたときにしわになった服の裾を整えた。
「午後、遠山先生から電話があったの。榊野学園はいい学校だって。数学の大会の成績は、まだあの有名な学校にはかなわないけど、生徒への支援には熱心だし、この二年は少しずつ伸びているって」
遠山は、前の学校で大会の指導をしてくれた先生だった。その名字を聞いても、蒼介は短く返事をしただけだった。
部屋は蒸し暑かった。ひとつしかない小さな扇風機が、千紗の足へ向けられ、羽根をぶんぶん鳴らしていた。蒼介の額から汗が滑り落ちた。美津子は彼を見つめ、指で服の裾を握った。
「……お母さんのこと、恨んでる?」
彼は黙っていた。
「千紗の転校を考えなくてよければ、もっといい学校に行けたのにね。耳がこうだから、あちらが小学校に話を通して、授業の支援まで手配してくれるって言ってくれたのも、蒼介がいるからで……」
母が手を伸ばし、背中に触れようとした。蒼介は横へ避け、唇を結んだ。
「大会に出られれば、どこでも同じだから」
人に触られるのが嫌いだった。母親でも同じだ。宙で止まった手は、しばらくして引っ込められた。母の目の縁が、少しずつ赤くなった。
「お母さんのせいだね。あのとき、あんなことがなければ、うちもこんなふうには……」
昔は近所の人に泣いて話すこともあった。何度か陰口に傷つけられ、それから他人には話さなくなった。妹は小さく、母のつらさを理解できない。そうして、話を聞く役はすべて息子に回ってきた。
蒼介は、あとに続く言葉を、ほとんど暗唱できた。間の取り方も、声の調子も知っていた。母が少し落ち着いてから、引き戸の奥へ目を向けた。
「千紗、補聴器は外した?」
美津子は振り向き、寝床のそばの小さな机を見た。
「自分でしまってた。新しい学校の初日だからうれしかったのか、一日中つけてたの。帰ってからは何も言わなかったけど、やっぱり心配で」
声を落とし、戸口越しに小さな寝床を見つめた。妹は唇をわずかに突き出し、腹に毛布を掛けて眠っていた。耳の後ろは蒸れて赤くなっている。
「今のは、あまり合ってないでしょう。髪に隠れてるうちはいいけど、体育のときに走ったり跳んだりして落ちたら、みんな見るもの。あの子、どれだけつらいか」
蒼介も、母の視線の先を見た。
「イヤモールドを作り直せばいい。本体も、固定する部品も、もう一度見てもらえば。聴覚外来に連れていって、聞いてみる」
「……また、お金がかかるよね?」
「数か月したら連れていく。金は気にしなくていい」
淡々と答えたが、母はうつむき、しばらく何も言わなかった。妹の聴力が損なわれてから、蒼介は毎年、家へ金を入れていた。はじめは冷凍倉庫で荷物の積み下ろしをした。深夜に働いたこともある。大会で成績を残すようになってから、少しずつ、ほかの生徒に数学を教える仕事が入るようになった。
もうすぐ三年になる。週末も、夏休みも冬休みも、空けられる時間はほとんど仕事で埋めていた。それでも、彼は今、まだ十七歳だった。
母はときどき彼を見て、ぼんやりすることがあった。けれど、本当に仕事を止めさせることは少なかった。妹はまだ小さく、人工内耳の評価も、その後の訓練も続けなければならない。保険や助成で医療費の負担は多少軽くなっても、通院の移動や付き添い、日々の生活費は、家計から絞り出すしかなかった。一日仕事を休めば、一日分の収入が減る。
そうした計算を、彼は何度も繰り返した。最後にはいつも、自分のために使う分から削った。
引き戸の向こうで、少女が悪い夢でも見たように、枕を抱いて毛布へ潜り、小さくすすり泣いた。美津子が慌てて立ち上がった。
「ちょっとあやしてくるね。蒼介も早く寝なさい。大家さんが卵をひとパックくれたから、明日、家でゆでて、千紗と一緒に食べて」
蒼介は返事をして、向きを変えた。そこで、また母に呼ばれた。
「グミ、買ったの? 千紗に?」
黒いリュックを見た。中に入れるとファスナーが閉まらず、グミの袋は普段ボトルを入れるメッシュのポケットに差してあった。猫の顔が、半分のぞいている。
妹は知らない場所に来たばかりだ。甘いものを少しやって慰めるのは、ちょうどよさそうだった。自分はお菓子が好きでもない。以前なら、そのまま渡していた。けれど今は、手を伸ばし、リュックを自分のそばへ引き寄せた。
自分のために取っておきたい。その気持ちは、自分でも説明できないほど、馴染みのないものだった。
「同級生が買ってきた」
目を伏せると、声が少しかすれた。
「俺にくれたんだ」




