うさぎの耳のヘアゴム
母はそれ以上聞かず、奥の部屋へ入っていった。蒼介は制服を脱ぎ、共用の小さな浴室へシャワーを浴びに行った。
古い給湯器のタンクは小さく、何世帯かで順番に使うので、この時間にはお湯がなくなっていた。冷たい水が額から肩や背中を流れた。汗を洗い落とし、部屋へ戻って横になったが、ソファの革は、まだ熱気を含んで温かかった。
体の力が抜けると、すぐに眠気が押し寄せた。目を閉じ、前の宿を思い出した。シャワーすらなく、洗面器に水を汲んで体を拭くしかなかった。右手ではタオルをしっかり絞れず、窓の外へ掛けておくと、翌日まで水が滴った。
一度、階下の老人が言いに来た。母は家の事情を他人に話したがらなかった。それから彼が体を拭くときは、入口で待ち、タオルを絞ってくれるようになった。
タオルは清潔だったし、母がただ助けようとしているのもわかっていた。けれど自分はもう、こんな年だ。母親とはいえ、異性でもある。そのたびにいたたまれず、しまいには、この体まで煩わしくなった。
今は、自分ひとりで浴室に立てる。それだけでもよかった。
◇
週末、夏帆はレッスンがあれば音大へ行き、残りの時間は家でチェロを練習した。母が電話で新しい工場の用地について話しているのを聞くと、席から跳ねるように立ち、隣の市へ土地を見に行くのについていくと言い出した。
日帰りの予定だった。いつの外出よりも早く鞄を用意し、運転手が下へ着くと、すぐ後部座席へ潜りこんだ。母に気が変わられるのが怖かった。
由紀は、黒く輝く娘の目をしばらく見てから、口を開いた。
「今回は市街地には行かないのよ。郊外の土地ばかりで、マクドナルドだってないの。ついてこなくていいから。おじさんに来てもらえば済むし」
「おじさんより、私のほうが役に立つよ」
母が眉を上げた。手のひらに汗をかきながら、夏帆は堂々として見せた。
「前に言ってたでしょ。小さいころ、お店を買うのに私を抱いて抽選に行ったら、毎回いい場所が当たったって。今度も連れていってよ。二年で大きな家に引っ越して、三年でお母さんを長者番付に載せてあげる」
由紀は笑って、柔らかな頬をつまんだ。夏帆はその隙に、車の奥へもう少し体をずらした。胸の中で張りつめていた糸が、ようやく緩んだ。増築の話から目を離してはいけない。こんな早いうちから、修平を入り込ませるわけにはいかなかった。
月曜の朝、学校へ送るのは七時四十五分の予定だったが、修平は三十分以上も早く来て、母娘と一緒に朝食を食べた。豆乳を二口飲んだだけで、何度も姉を見た。
「会社で聞いたんだけど、新しい工場の土地、見てきたんだって?」
「見ただけ。まだ決めてないわ。来て一か月なんだから、まずこっちに慣れなさい。急いで外を回らなくていいの」
彼は笑みを作り、箸を皿の縁へ置いた。
「一か月もあれば、十分だろ。姉さん、ずいぶん地元に帰ってないし、まだ昔の俺だと思ってないか。母さんもこの前言ってただろ。もうちゃんとしてるって。トラックを運転してたころの社長だって、みんな俺は頼りになるって言ってたぞ」
家政婦が、甘いスープを二つ運んできた。小さな陶器のスプーンを持ち、ずっと下を向いて飲んでいた夏帆が、顔を上げた。
「おじさん、ほんとに頼りになるよ」
修平がこちらを見た。口角が上がりかけたところで、彼女は続けた。
「運転、すごく安定してる。ブレーキも気づかないくらい。前の運転手さんだと、揺れて気持ち悪くなったけど、おじさんの車は楽なの。この間、商店街で揉めてた人も、おじさんを見たら、私に手を出せなくなったし。これからも、ずっと送ってくれない?」
真剣な口調で、声は明るく澄んでいた。由紀は娘を見て、笑った。
「それなら、おじさんに引き受けてくれるか聞きなさい」
よく似た二組の目が、男に向いた。その顔の笑みが少しずつ固まり、しばらくして、やっと答えを絞り出した。
「……別に、いいけど」
◇
修平はうつむいて豆乳を飲み、工場の話をそれ以上しなかった。こちらへ来る前、両親は自信たっぷりに言っていた。実の姉の会社なのだから、いずれ半分はお前のものだ、と。大きな家も、高級車も、姉についていれば手に入る。
商売をしている女には、外で顔を利かせる男が必要だと思っていた。数日もすれば、自分が二番手に座れるはずだった。それなのに、巡り巡って姪の世話をし、姉のところで門番をするために、わざわざ来たようなものだった。
もう引き受けると言ってしまった。残りの言葉は、のみ込むしかなかった。
◇
七時半を少し過ぎ、街には薄い朝靄がかかっていた。普段の修平は、車の中で面白い話をして、夏帆を喜ばせようとした。この日はひと言も話さなかった。夏帆は静かなのがありがたくて、後部座席にもたれ、ずっと街を眺めていた。
彼の経歴では、月に三十数万円もらえて、楽で体裁もいい仕事を、ほかに見つけるのは難しいだろう。もしこの街を出て、地元へ帰ってくれるなら、それこそ願ってもないことだった。
心配事がひとつ、ひとまず片づいた。早く学校へ行くことまで、新鮮に感じられた。前の人生では、いつも朝のホームルームのチャイムと同時に入っていた。遅刻を何度記録されたか、数えきれない。今は三十分早いだけで、校舎の中も外も、こんなに静かだった。聞こえるのは梢の鳥の声だけだ。
クラスでいちばん乗りだと思って扉を開けたら、窓際にひとり座っていた。
蒼介は白いシャツに、手首を隠す薄いカーディガンを重ね、淡い金色の朝の光の中で本を読んでいた。扉の金具が小さく鳴ると、目を上げた。夏帆はドアノブを握る手に力をこめた。
「私……見えた?」
口にした途端、隠れてしまいたくなった。こんな大きな体で入口に立っているのだ。幽霊でもあるまいし、何を聞いているのか。
相手はただ、そっけなく返事をして、また目を落とした。
ゆっくり歩み寄り、ぬいぐるみのついた鞄を足元へ置いた。ポニーテールを結ぶ、うさぎの耳の形をしたヘアゴムが揺れ、肩のそばへ垂れた。
スカートに手を置いたまま、しばらくして、夏帆は横を向いた。
「三崎」
長くまっすぐな睫毛を伏せ、彼は目の前の単語帳を見たまま、こちらを向かなかった。前の人生でも、何かに集中しているときは同じだった。何を話しても、どこにも届かないように感じた。ただ、その静けさに耐えていれば、もう少し長くそばにいられることもあった。
夏帆は目を下げて、彼の手を見た。袖口から出た傷は、あの日より少しよくなっていた。何か塗ったようにも見えたが、むき出しのままで、パッドは貼られていない。
「まだ痛い? どうしてパッド、貼ってないの?」
彼が一ページめくった。夏帆はその皮膚を見つめ、あれこれ考えるうちに、声が小さくなった。
「……自分だと貼りにくいの? 大丈夫、私が――」
淡い茶色の目が、こちらを見た。続きが喉につかえた。朝からこんなふうにまとわりつかれては、確かに鬱陶しいだろうと思った。
窓の外で蔓が風に揺れ、緑の葉が重なりながら裏返った。教室には、まだほかに誰もいない。風の音だけが聞こえるほど、静かだった。
彼はしばらく、夏帆を見た。
「貼ってくれる?」




