彼は苦労してきた
前の人生で、いちばん申し訳ないことをした人が、目の前にいた。
母の若いころの話は、少しだけ聞いたことがある。相手の男は顔がよく、甘い言葉をかけるのも上手だったが、何か起きればうろたえるだけで、先々の暮らしについて何の考えもなかった。由紀は彼と別れ、知人に金を借りて病院へ行った。中絶の手続きまで済ませたのに、診察室に入る直前、身を翻して外へ飛び出したという。
そのあとの暮らしについて、夏帆が知っていることは少ない。母娘で祖母の家へ正月に帰ることはめったになく、昔のことを話す人もあまりいなかった。若い母は美しく、頭が切れて、仕事もできた。衣料品の卸売店の店員から身を起こし、数年も経たないうちに、ベンツに乗る経営者になった。
幼稚園に入る前のことはよく覚えておらず、子ども時代に苦労した記憶もほとんどない。物心ついたころから、食べる物も着る物も上等だった。寝間着さえ絹で、リボンには小さな薔薇がついていた。欲しいと言えば、母はどうにかしてかなえてくれた。
大学へ行かなかった由紀は、娘の教育にはひときわ熱心だった。いちばんいい学校を目指し、受かりそうなら受験させ、成績が足りなければ塾や家庭教師に金をかけた。そうして、どうにか榊野学園へ入れてくれた。
赤い壁には緑の蔓が茂り、教師も選び抜かれていた。それなのに、あのころの夏帆には悠人しか見えていなかった。母娘でしょっちゅう喧嘩をしては、放っておいてと叫んだ。ひどく言い争った日には、母がこめかみを押さえて出ていくよう言い、夏帆も、祖母が母を責めるときのひどい言葉を、そのままぶつけた。
やがて工場で大きな事故が起き、母は巻き込まれて刑務所へ入った。最後まであちこちに掛け合い、娘のために少しでも財産を残そうとしてくれたのに、夏帆はメディアのカメラを怖がり、悠人に婚約を解消されたことで一晩中泣いた。面会へ行っても、自分のつらさばかり話していた。
面会室のガラスの向こうで、母はずいぶん痩せていた。一夜で老けこんだように見えた。それをちゃんと見ようともせず、中でどんな暮らしをしているのか尋ねることもなかった。
蒼介と再会する一か月前、刑務所から電話が来た。母は心停止を起こし、亡くなっていた。
三日後、遺品を片づけるため、昔の家へ戻った。幼いころに着ていたプリンセスのドレスがきちんと畳まれ、何冊ものアルバムと一緒に、戸棚を埋めていた。何気なく一冊抜き取ると、中には自分では可愛く写っていないと思っていた写真ばかり並び、白い縁に見慣れた字が書かれていた。
【夏帆に新しい歯が生えた。気になるらしく、しょっちゅう触っている。】
【角のおもちゃ屋の在庫処分。二百円のプラスチックのネックレスでも、うちの娘がつけるとお姫様。】
【本番前にドレスが入らないとわかって、家でずっと泣いている。】
【どこが可愛くないの。うちの娘がいちばん可愛い。夏帆は世界にひとりしかいないんだから。】
手当たり次第にページをめくった。抜き出したアルバムを戻せなくなり、無意識に、お母さん、と呼んだ。部屋には古い掛け時計の音だけが響き、床に自分ひとりの影が落ちていた。
戸棚の扉にすがってしゃがみこみ、泣きすぎて立ち上がれなくなった。
母を失ってからの年月に、最後に頼れる血縁をなくした心細さが、骨の奥まで染みついた。今、再びその呼び名を口にしても、まだ現実だと思えなかった。
車内には冷房の涼しい風が流れている。夏帆は母の腰に抱きつき、清潔な服に頬を擦り寄せた。ブローチが肌をかすめ、少し痛かった。それがかえって、腕に力をこめさせた。
自分はまだ十七歳で、工場の増築は始まっていない。窓の外には明るい日差しがあり、着ているのは母が洗ってくれた制服で、懐かしい匂いがする。ふたりには、まだ長い時間がある。母の胸元に涙が染みていった。顔を埋めたまま、もう一度呼ぼうとしても、うまく声にならなかった。
由紀の手は宙で止まり、しばらくしてから娘の髪を撫でた。硬かった声も和らいだ。
「……今度こそ、本当に振られたの?」
「あの子は頼りにならないって、前から言ってたでしょ。わかったなら、それでいいじゃない。夕飯、何が食べたい? 洋食? 中華?」
夏帆は母の首元に顔を埋めた。
「お母さんの作ったものが食べたい」
由紀が耳を軽くつねった。
「調子のいいこと言って。この間は、トマトの和え物しか作れないって馬鹿にしてたくせに」
「あれは嘘。お母さんが作ったの、好きだもん」
もう少し、母の懐に潜りこんだ。洗濯洗剤と、甘い香りのするフェイスクリーム。それに肩に貼った湿布。それらが混じった匂いは、記憶の中でどれほど探しても、取り戻せなかったものだった。
「どんなにおだてたって、今日はチェロに行くのよ。石田先生のレッスン代、高いんだから。もう一度さぼったら、来月のお小遣いはなし」
夏帆は何度もうなずき、鼻をすすった。
四時を少し回ったばかりなのに、市の中心部の道はもう混みはじめていた。ひとつの通りで、三度も赤信号を待った。角にある小学校は下校時刻で、鞄を背負った子どもたちが大勢駆け出してきた。校門の外で待つ保護者たちの中に、榊野学園の制服を着た少年が立っていた。
夏帆は車の窓越しにそちらを見た。
アスファルトが日に焼けて熱くなっている。蒼介は道端にしゃがみ、マッシュルームカットの小さな女の子の靴紐を結んでいた。背中で木陰が揺れ、この角度から見えるのは、ほっそりした顎だけだった。
両方の靴紐をしっかり結び終えても、彼はしゃがんだまま、手を上げて少女に何かを伝えていた。長袖がまくり上がり、引き締まった白い前腕に、濃淡の入り交じる傷痕が日を浴びていた。
いちばん目立つ傷は、右肘から手首まで延びていた。縫い合わせた跡は粗く、目に痛いほどだった。
夏帆は体をひねり、長いこと見ていた。信号が青に変わり、白いシャツが車の流れの先で小さな点になるまで見送ってから、座り直した。
「同級生でもいた?」
母も外を見たが、窓の向こうにはもう車しかなかった。
「……何でもない」
もう一度母に腕を回した。それでも胸のざわめきは収まらなかった。蒼介が苦労していたことは知っている。学校で何があったかも覚えている。けれどあの体の傷には、自分が思っていたより、ずっと前についたものがある。
帰宅すると、由紀は料理を担当する家政婦を休ませ、自分で台所に立った。トマトの和え物、焼いたランチョンミート、それから青菜と目玉焼きをのせたインスタントラーメンが二杯。手軽に作れる家庭料理が、食卓に並んだ。
見た目は普通で、味も記憶のとおりだった。夏帆は器を抱え、片手に箸、もう片方にスプーンを持って、顔を上げる暇もなく食べた。最後のひと口までスープを飲み干し、げっぷをして、器を台所へ運んだ。
しばらく背後が静かだった。振り向くと、母が目を丸くしていた。
前の学期、好きな人に太っていると言われて以来、夕飯はほとんど食べなくなっていた。空腹で脚に力が入らなくなっても、りんごを数口かじるだけ。母がいくら言っても聞かなかったから、こうしてきちんと食べる姿を見せるのは、ずいぶん久しぶりだった。
「……そんなにつらいなら、今夜のレッスンは休んでもいいのよ。石田先生には、お母さんから言っておくから」
「休まないよ。これからは毎回、ちゃんと時間どおりに行く」
夏帆はうつむいて洗剤を出した。スポンジに泡が立ち、台所にレモンの香りが広がる。スカートの裾がかすかに揺れ、手の中の器は、きれいに洗い上がった。




