会ったことがない?
夏帆は耳まで熱くなり、手を引いて窓際へ戻った。うつむいてスカートを整えていると、視界の端で、彼の姿はまだ同じ場所にあった。
机の端にあった鉛筆が何かに擦れて落ち、足元へころころ転がってきた。かがもうとしたときには、彼が先に身を屈め、片膝をつくような姿勢で拾っていた。
ふくらはぎに彼の腕が近づき、その体温を感じて、夏帆は少し脚を引いた。気がつけば彼は椅子を引いて座っていた。机の上には、軸の擦れたゲルインクのボールペンが一本。ペンケースさえなかった。
かがんでいたときの横顔は、ひどく張りつめていた。早く鉛筆を拾うことしか、考えていないようだった。夏帆はその鉛筆を握り、ぼんやり彼を見つめた。ここは、お礼を言うところなのか。それとも、気にしていないと言うべきなのか。
沢田先生の視線がこちらへ向いた。隣の彼が、左手を紙に押し当てた。
「授業、聞いて」
夏帆は口を開きかけたが、結局、黒板へ向き直った。空間図形、正三角柱、正四角柱。二本の直線が垂直であることの証明。前の人生でも理解できなかった内容は、もう一度聞いても、やはり馴染みがなかった。
まだ晴らしていない昔の恨みなら、五分でひと通り思い返せるのに。黒板の問題は、十五分見つめても、何から手をつければいいのかわからない。だんだん眠くなってきて、隣を盗み見た。彼のプリントは、ほとんど白紙だった。授業が半分過ぎても、名字すら書いていない。
どうにか眠気に耐え、今度こそ真面目に勉強するつもりだったことを思い出した。先生が黒板へ向いた隙に、前の席へメモを渡した。
【ノート取ってる? 放課後、写させて。お願い。】
夏休みが終わって、まだ二週間。前の人生でも似たようなメモを何度か回したが、借りるのはいつも宿題だった。実乃里の背中が一瞬止まり、少しして返事が戻ってきた。
【教科書に書き込んでて、ごちゃごちゃだから。家でまとめて、月曜に渡すね。】
この子がどれほど真面目だったか、覚えている。成績こそ最上位ではなかったものの、大学受験までにまとめたノートは、積めば人の背丈の半分ほどになり、そのことで校内新聞に載ったほどだ。夏帆はありがとうと書き、わざわざピンクの蛍光ペンに持ち替えて、丁寧にハートを描いた。
前の席の少女が振り向き、目が合うと、また前を向いた。まもなく、きちんと折られた新しいメモが届いた。
【転校生の隣でいいの?】
【どうして? 近くで見ると、すごく格好いいんだよ。】
本心だった。前の人生で、結婚生活がいちばんつらかったころでさえ、蒼介の顔は文句なしに好みだった。ただ、性格にはとてもついていけなかったけれど。
実乃里は教科書に隠れて、親指を立てた。次のメモには、一言だけ書かれていた。
【前から知り合いなのかと思った。】
ブックスタンドが顔の半分を隠し、窓台も教壇からの視線を遮っていた。夏帆はペンの端を噛み、ゆっくり返事を書いた。
【会ったことないよ。】
◇
蒼介は隣へ目をやり、ちょうどその文字を見た。ペンを持つ手が止まった。
昨夜はひどい雨だった。転校の手続きを終えたばかりで、榊野大学の近くへ、母の店じまいを手伝いに向かった。雨を吸ったシートが風にはためき、釣り銭が地面に散らばっていた。全身ずぶ濡れで、拾う手も空いていなかった。
目の前の少女は、連れと酒を飲んでいた。帰りのタクシーを待つのに飽き、傘を差して水たまりへ駆け込んだ。高価な羊革の靴底が踏みつけるたび、濡れた紙幣が何枚も汚水の中でぼろぼろになった。
あのとき、すぐそばにいたのに。「会ったことない」と書かれたメモを見ても、忘れたのか、初めから隣に人がいることさえ気づかなかったのか、蒼介にはわからなかった。
◇
夏帆が職員室で叱られて戻ってくると、蒼介は窓際で本をめくっていた。前の人生で転校してきたころは、生徒の匿名掲示板で十数回も話題になり、四組の入口にはよく誰かがのぞきに来ていた。この日、彼の周りは静かだった。自分から誰かに話しかけることもなく、窓の外にひっそり立つ、一本のヒノキのようだった。
榊野学園は歴史が古く、校舎は市の中心部にある。周辺に大きな寮を設ける余地はなく、生徒の大半は自宅から通っていた。午後の三時間目が終わるチャイムとともに、校舎がにぎやかになり、生徒たちが階段を下りて校門へ流れていった。
学校を出て角を曲がれば、商業施設の並ぶ通りに出る。駅もバス停も近い。けれど蒼介は別の方向へ歩いていった。夏帆はこっそり後を追ったが、脚が長く、歩くのも速い。信号ひとつに足止めされただけで、背中は人混みに消えてしまった。
仕方なく引き返し、学校のある通りまで戻りきらないうちに、路肩の車が短く二度、クラクションを鳴らした。ベントレーの窓が下がり、車内の女性は夏帆を見つけると、手元の煙草を消した。
「夜はチェロのレッスンでしょ。校門で待っててって言ったのに、またどこをうろうろしてたの?」
かけたばかりのパーマ。鮮やかな赤い唇。手入れの行き届いた顔には、まだ年齢を感じさせるものがほとんどなかった。夏帆はその場に立ち尽くし、どうしても足を踏み出せなかった。
母は軽く舌を鳴らし、運転手に、もう少し前へ出るよう合図した。
「何をそんなにびくびくしてるの。昨日なんて、帰るなり子豚みたいに寝ちゃって、泣くわ、あの子の名前を呼ぶわ。またレッスンさぼって、あの男の子の誕生日に行ってたんでしょ。あれだけ吐いて、片づけてあげるのなんて、お母さんくらいよ。前世でどれだけ借りを作ったのかしらね」
窓越しにもう一度こちらを見て、母の眉間に少しずつしわが寄った。叱るようだった声も、後半はゆっくりになった。娘の様子が、気がかりになったらしい。
「夏帆、正直に言って。誰かに何かされ――」
「お母さん」
そう呼んだ途端、涙がこぼれた。




