講台に向けられた悪意
数学の競技グループでは、普段から小テストが多かった。成績で練習のグループを調整し、月ごとにも集計した。今回は、その結果が、普通のクラスの到達度テストの学年順位より、一日早く出た。
続けて二時間の授業が終わると、蒼介は指導室へ呼ばれた。ノックして入ると、片岡が成績表と鉛筆をそれぞれの手に持ち、穏やかに招いた。
「こっちへ」
机を囲んで話していた教師たちが口を閉じ、次々にこちらを見た。
「驚いたよ。今回、野上が作った問題でも、君には簡単すぎたかい?」
「それほどでは」
机の前へ立ち、短く答えた。同じ口数でも、成績の悪い生徒なら、反抗と受け取られたかもしれない。優等生になると、謙虚さになった。片岡はにこにこしていて、ぞんざいに扱われたとも思わなかった。
「週のテストには、私がいないことも多い。集計は先週末に出ていたのに、誰も送ってくれなくて、今日初めて見たよ。入った週こそ少し慣れる時間があったけど、そのあとの週テストも授業中の小テストも、全部、Sグループの一位。大したものだ」
一枚めくった。
「夏休み、野上は電車で君の地元まで行って、家の近くに部屋を借りて、二週間近く説得していた。あのときは、そこまでしなくてもと思ったんだがね。見誤っていたのは、私のほうだった」
競技グループができてから、片岡に、これほど褒められる生徒は多くなかった。ところが目の前の少年は、平静なままで、喜んだ顔さえしなかった。片岡はしばらく眺め、少し口を曲げると、別のファイルを開いた。
「来月、予選前にある学校対抗の招待大会だけど、三年の篠塚と一緒に、チームを引っ張ってほしい。ここ数週間は練習も詰まってくる。ふたりが先頭に立って、みんなで、いい成績を目指そう」
篠塚は、グループで三年近く積み重ねて、今の位置へ来た。蒼介は入って数週間の成績だけで、肩を並べることになった。この話が広まれば、しばらく、グループ全体の話題になるだろう。
「選ばれるのは、Sグループだけですか」
「例年なら、Aにも一人か二人、枠を回せるんだが。今年は……」
片岡はファイルを最後までめくり、仕切りの向こうへ顔を向けた。
「野上、招待大会の資料、そっちにあるかな。Aの一位の黒田は、まだ入れそう?」
「例年なら入ります。今年はSの人数が多いので、今の順位では入りません」
別の副指導者が、言いかけてためらい、それでも口を開いた。
「推薦名簿を出すのは月末でしょう。今、決めてしまうのは、少し早くありませんか。黒田も、上がってこないとは限らないですし」
「今のところの見込みだよ。まだ何週間かある。そのとき、また話そう」
片岡は茶のカップを置き、蒼介へ向き直った。
「夜に、問題解説の時間を増やす。毎日、いちばん失点の多かった最後の難問を集めておくから、篠塚と交代で、一日ずつ説明してほしい。Aも聞きに来るので、元の部屋では入りきらない。学校には話してある。一階の空いているマルチメディア教室を使って、解説が終わったら、そこで続けて演習しよう」
少し間を置いた。
「亮太から聞いたけど、沢田先生のクラスへ戻って、夜の自習に出るのが好きなんだってね。今月は、そこは我慢してもらいたい」
蒼介は一瞬止まり、それからうなずいた。
「はい」
◇
学校には、新しい話題がそう多くない。到達度テストの順位が出ると、二年四組の転校生が、また話の中心になった。容姿で注目を浴びたときよりも、長く続いた。
来たばかりで数学Sグループの一位を固め、去年、本選に出た三年の篠塚よりすごいという話が出た。そのうち各科目の点数も回り、学年二十六位なのは苦手科目があるからではなく、手を怪我していて、国語と英語の作文を書ききれなかったからだとも伝わった。
新しい話題が次々に上がり、自傷や服役の噂は、次第に口にされなくなった。それでも、ときどき、優等生の噂話の中へ混じった。
一方、競技グループは、普通のクラスほどにぎやかでも、友好的でもなかった。交代で解説することが決まると、新入りには納得しない者も多く、長く知っている篠塚へ寄っていった。もともと小さな仲間同士のつながりは閉じていて、学年や在籍の長さにも、ひどくこだわった。亮太はずっと入り込めずにいたので、今回は、新しい相棒が引き上げられたのを、むしろ喜んだ。
翌日の夕食後、みんなで一階の教室へ移った。亮太は列の最後に残り、蒼介の肩へ顔を寄せた。
「三崎隊長」
蒼介は眉を寄せ、避けた。
「そう呼ばないで」
「少しくらい、いいだろ。ほんと、今の調子で、大会でもあいつら全員負かしてくれよ。一年、我慢したんだからさ」
蒼介はリュックを整え、教室の扉を閉めた。
「自分で点を取って」
「それができたら、今まで、こんな悔しい思いしてないって」
亮太は二歩ほど早足で出て、ポケットに手を入れたまま後ろ向きに歩いた。声を落とした。
「それと、Aの黒田。親父が理事だって、知ってるだろ? 毎回Sには入れないのに、Aの一位は取るんだよ。変だと思わない? 同じ競技の塾に行ってるんだけど、一対一の指導で、年に何百万円も払ってるらしい。三割は塾、七割は学校の、あの副コーチ。あの人が問題を作ると、前日に手に入るんだって」
「どうやって、確かめたの?」
「この前の週テストの二問目。模範解答の解き方が間違ってたんだよ。俺は解けなかったし、お前は丸ごと点を引かれた。なのに黒田は、模範解答と、そっくり同じ間違い方してたんだ。それで、何日も俺たちに自慢してた」
マルチメディア教室は、一階の突き当たりにあった。扉まで数歩になったところで、亮太は笑いを消し、小声で念を押した。
「昨日、篠塚が説明してる間、静かだったからって、行儀のいい連中だと思うなよ。今日はお前だから、絶対、違う。先に言っとく。腹立てるな。大会までは、何言われても落ち着いて、手は出すなよ。ひどすぎたら、俺が手伝う」
「わかってる」
怒る? こういうことで腹を立てなくなって、もう長かった。幼いころに、十分、思い知っていた。どれほど屈辱や怒りが強くても、何の役にも立たない。
◇
夜の練習が始まった。プロジェクターがつき、前回の招待大会の問題が、スクリーンいっぱいに映った。蒼介は長く板書できないため、問題の横に、あらかじめ解答を書き込んでいた。口を開いたばかりで、下から私語が聞こえた。
見慣れない男子たちが机へ伏せ、ときどき教壇を見上げていた。
「三崎って、誰なんだよ。競技のほう、あんなに早く授業終わるのに。食堂で見ない顔なんてないのに、こいつだけ見たことない」
「天才は、飯なんか食わないんだろ。露でも飲んでればいいんじゃね」
「お前が一食で追加するおかず代で、あいつの補助定食、何食分になると思ってんの。会うわけないだろ。知り合いたいなら、今度、余った肉でも持っていけば。すぐ仲よくなれるって」
「それなら捨てるわ。親父扱いされても困るし」
説明が半ばまで来たところで、後ろのSグループの一人が手を挙げた。画面の字が見えないと言い、黒板へ書き直すよう求めた。蒼介がチョークを持って振り向き、最初のアルファベットを書いたとき、耳障りなシャッター音がした。
練習中は、スマホの管理が緩かった。男子たちは写真を拡大し、うつむいて笑いながら回した。画面には、手の一部だけが映っていた。
「右手の、あの二本、見た? 手のひらに縮こまってんの。気持ち悪……」
「字が汚くても、左で書くわけだ。右、ほんとに駄目なんだな」
「声、小さくしろよ。この前の黒田の件、忘れた? 前科あるやつなんて、また入るのも平気だろ。お前も、ああされないように気をつけろよ」
壁際の黒田は動かなかった。その周りで、わざとらしく納得する声が上がった。
「指、なくなってなくても、障害者手帳って、もらえるの?」
「もらえなくても、何とかすんじゃね。三百円の飯、食ってるくらいだし。手当、諦められるかよ」
声は、ますます遠慮を失っていった。最前列の中央で、一人がついに吐き捨てた。
「……くそ野郎どもが」




