ただ一人の満点
今学期最初の到達度テストは、病気の友人を英語で見舞う短い作文で終わった。夏帆が最後の句点を打つと、ちょうど終了のベルが鳴った。長く息を吐き、ペンを置いた。手のひらには汗をかいていた。
緊張もあったが、それ以上に興奮していた。隣に、隠そうともせず置かれた答案は、結局、使えなかった。試験で写すことには、気がとがめる。それ以上に、始めたら止まらなくなるのが怖かった。自分の自制心では、実力をはるかに超える点を取ってしまったあと、どうすればいいかわからない。
終わると、蒼介は競技グループの用事で先に行った。夏帆がひとりで教室へ戻ると、実乃里は、もう前の席の女子と答え合わせをしていた。入ってきた姿を見るなり振り向き、顔をよく確かめた。
「どうだった?」
「まあまあ。次は、いびきを聞きながら答案を書くことには、ならないと思う」
胸がどきどきしていた。口では、少し控えめに言いたかったが、実乃里はもう、喜んでくれた。
「やっぱり! 勧めた塾、役に立ったでしょ? 鶴見先生の出す重点問題、すごく当たるの。一年のとき、一対三の授業を受けたけど、十回分の重点問題をやると、試験の大問五つ、ほとんど似たのが出たよ」
夏帆は窓際へ座り、落ち着いているふりで、水を飲んだ。
「……三崎先生のほうが、当たる」
「三崎先生って、誰? 新しい先生?」
曖昧に返事をし、説明はしなかった。三崎なんて、ほかに誰がいるだろう。
前の人生でも、母は家庭教師をつけ、塾へ通わせてくれた。金を使うばかりで勉強は身につかず、先生の絞った範囲がどれほど当たるか、比べようもなかった。実乃里の話で、十回分の問題から五問の型を押さえるだけでも、十分すごいのだとわかった。蒼介の指定した範囲は、全部で十問ほどしかなかった。
選択問題は、まだ半分を勘に頼った。大問の三問目も、相変わらず飛ばした。それでも一問目、二問目は、例題の手順を当てはめ、基礎問題をかなり解けた。最後の数値が合っているかはともかく、記述欄は、見たところ全部埋まっていた。試験へちゃんと参加できたような感覚は、これまでなかった。
家に帰ると、由紀へ抱きつき、左右の頬へ一回ずつ、音を立ててキスをした。母を戸惑わせたまま、自分は鼻歌で去った。誰かに導いてもらうよさを、一度味わっただけなのに、もうやめられそうになかった。すぐにでも蒼介を見つけ、金額を決めてもらって、大学入試まで教えてほしかった。
翌週、学校へ戻ると、その思いはさらに強くなった。
秋の授業が始まった際、学園では休み明けのテストをしなかった。今回は、特進の教師数人が共同で作問し、難度も低くなかった。採点された用紙が返ると、沢田が普段から目をかける黒田だけは、まだ背筋を伸ばしていたが、数学の得意な男子も、何人も悲鳴を上げた。すぐに答案を伏せ、誰かがのぞこうとすると、必死で隠した。
夏帆は気楽だった。難しすぎる問題は、もともと自分のやる範囲ではない。返された答案の上には、赤い七十四の数字があった。うれしくて、手足が少し冷たくなった。
カーテンの陰で、膝の上へ答案を広げた。こっそり写真を撮り、母へ送った。
【お母さん、点、取れた!】
【見て。前の二倍!】
返事を待たず、画面を消し、唇を結んでスマホを隠した。一台は預かられたままで、予備はこれしかない。気をつけなければならなかった。
チャイムが鳴り、沢田が革靴の音を立てて教壇へ上がった。
「成績は、まだ入力中です。順位は明日出ます。今日は答案を見直しますが、その前に二つ。まず、先週集めた間違い直しのノートを、まだ出していない人がいます。名前は控えてあります。明日まで待つので、授業の前に出すこと。個別に呼ばれないように」
教室を見渡した。
「二つ目。今回の数学の共通部分は、文系も理系も同じ問題で、全体に難しめでした。それでも、このクラスには、はっきり伸びた人が何人かいます。褒めておきたいと思います」
窓際で目を輝かせる夏帆へ、視線が通った。軽くうなずき、また答案へ目を戻した。
「それから、数学の学年一位は、このクラスから出ました。特進の二クラスより、高い点です」
教壇の下が、すぐにざわついた。
「マジ? 誰がそんな取ったの?」
「委員長? 学習係? 黒田、百四十超えた?」
「絶対、黒田だろ。記述見せてもらったけど、すごかったし。今回、決まったんじゃない?」
◇
黒田は二列目に座り、机へ答案を広げていた。赤い百四十二の数字が、ひどく目立った。前後の男子が首を伸ばして寄ってくると、迷惑そうに二度ほど隠したが、口元は、どうしても緩んだ。
三崎が来るまで、四組の数学競技生は、自分ひとりだった。AグループではSに及ばないが、普通のクラスなら十分に目立つ。数学の一位は、いつも自分だった。
隣の特進にも知り合いは多かった。休み時間に聞いて回ったが、自分より高い点は、まだ聞いていない。四組を見渡しても、ほかに候補など浮かばない。背もたれへ寄りかかり、笑いをこらえて口元を引き締めた。
次の瞬間、沢田が記述の答案を持ち上げ、軽く振った。入口側の最前列にいる男子へ渡した。
「これは三崎くんの答案。学年でただ一人、満点でした。字はまだ少し乱れていますが、解答は見事です。回して、見てみなさい。特に、言葉は山ほど書いてあるのに、必要な手順が見つからない人。簡潔で、わかりやすく書く方法を、よく見ること」
一瞬、静まり、すぐに声が湧いた。沢田は、何人かの男子へ目を向けた。
「三崎くんは、あなたたちと何時間、同じ授業を受けましたか。あなたたちは、何時間受けたの。帰って考えなさい。成績は実力で取るものです。何度か一位だったからといって、安心しないこと。自分より賢い人が、まだ努力しているんだから」
視線が止まった。
「それから、先生が小さなグループに入っていないからって、作り話をして、同級生を仲間外れにしていいわけじゃありません。その熱意を答案へ向けたほうが、よほどいいでしょう」
黒田の顔に、少しずつ熱が上がった。答案がそばへ回ってきた。めくる前から、周りの目は、満点の用紙へ集まっていた。百五十と百四十二。たった八点なのに、こうして並ぶと、王子と、そのそばの従者のようで、もう取り違える者はいなかった。
さっきまで自分を囲んでいた連中が、争って答案を受け取った。何度も感嘆する者もいれば、点数に触れ、運を分けてもらおうと笑う者もいた。黒田は歯を食いしばり、名前の欄を見た。
体育では、バレーボールであんな目に遭わされ、最後も、何の決着もなかった。まだ忘れていないのに、今回は本人さえ来ず、また注目を全部さらっていった。
三崎。また、三崎か。
◇
夏帆は、最初から誰か見当がついていた。周りが盛んに名前を挙げても、黒田のほうは見なかった。答案が回ってきてから、名前の欄に軽く触れ、輝く百五十の数字にも触れた。
あちこちで、感嘆の声が続いた。浅いえくぼを作り、目を細めた。自分のことのように、うれしかった。




