私は味方だから
夏帆は反射的にうなずき、すぐ首を振った。
「私がどう思うかなんて、関係ないでしょ。自分で決めることだよ」
白い耳が、少し赤くなった。緊張して、指を立てた。
「誤解しないでね。席が隣かもしれないけど、答案を写すつもりじゃないから。ただ、競技のほうではあんなにいい成績なのに、貼り出されるのが管理棟で、普通のクラスの先生や生徒は知らないって、もったいないと思って」
声を抑え、続けた。
「いい点を取れば、みんなも見る目が変わるし、あの噂も減ると思う。黒田がまた絡んできても、誰かが味方してくれるかもしれない。体育の先生だって、黒田よりできるって知ったら、態度が変わるかも」
「じゃあ、君は?」
一瞬、戸惑ってから、何を聞かれたのかわかった。
「私は、もともと味方だよ」
周りで眠る人を起こさないよう、さらに声を落とし、体も少し寄せた。柔らかな髪の先が垂れ、彼の腕の内側を滑った。
◇
ほのかな甘い香りは、彼女の体温まで含むように、温かかった。制服越しなのに、蒼介の体の半分が、一瞬こわばった。肩から喉へむずがゆさが広がり、子猫に軽く引っかかれたようだった。
「黒田よりいい点を取れるって、そんなに確信してるの?」
◇
夏帆は迷わずうなずいた。前の人生では、高校三年で数学の大会を諦め、一年間、姿を消した。その後、勉強をやり直し、一般入試で最難関の国立大学へ入った。けれど、それを知らなくても、ひと月近く接してきた今は、信じていた。彼は、ずっと今の境遇に閉じ込められている人ではない。少しでも機会があれば、勉強でも、それ以外でも、きっとうまくやれる。
「黒田のあの点数じゃ、比べものにならないよ。三崎だもん」
首を傾けると、髪留めの小さなうさぎが揺れた。何を今さら聞くのかと言わんばかりに、当然のこととして答えた。
◇
手のひらには、まだ、もらったチョコレートを握っていた。暑さで、少し柔らかくなっていた。蒼介は何か言おうとし、あの明るい目に迎えられると、唇を結ぶだけになった。
こんな調子で呼ばれることに、慣れていなかった。この姓が、困窮や暗い過去と結びついたことなど、一度もなかったかのように。口にするだけで、何か、すごいことのように。
「ちょっと提案しただけだから。プレッシャーに思わないでね」
◇
返事がないので、夏帆は急かしすぎたかと心配になり、慌てて付け足した。
「こっちの教科書とか進度って、前の学校とは少し違う? 転校してひと月だけど、普通の授業は何回も受けてないもんね。今から復習するの、大変かも。間に合わなくても大丈夫。機会は、まだあるから」
沢田が教科書を抱えて入ってきたところで、ようやく「うん」と返った。どの言葉に答えたのか、わからなかった。
午後の自主復習が何時間か続いた。蒼介が真新しい教科書の束を出したのは、もうすぐ下校というころだった。ほとんど白紙の学習プリントと照らし合わせ、ページをめくった。睫毛を伏せ、一目で何行も追った。夏帆が小説を読むより速かった。
机の本が、次々に替わった。顔はずっと冷たいままだった。ひそかに見ていた夏帆は、大まかに目を通して、諦めるつもりなのだと思った。また、余計なことを言ったと後悔した。落ち込んでいるかもしれない。惜しかったが、箱に残った最後の一粒を、取り出して渡した。
がっかりしないで。これから先には、いい日が待っているのだから。
帰り道、わざわざカフェへ寄り、エスプレッソをダブルにしたアメリカーノを買った。一気に飲み、家では一時近くまで机に向かった。ようやくベッドへ入ったのに、鼓動が速く、目が回るようだった。いっそ起き直し、彼が印をつけた問題の手順を、もう一度暗記した。
点数を気にしなければ、試験も普段とさほど変わらない。けれど、こんなに自分の力で、まともな点を取りたいと思ったのは初めてだった。
翌朝、目覚ましが鳴ると、一分もぐずらず起きた。乱れた髪のままベッドを降り、スリッパを引きずって洗面所へ入った。頭の中で公式が走り回り、口でも何かを唱えていた。
このところ、別人のように勉強していた。休みの日にも、遊びに行きたいと騒がなかった。由紀は何度も驚いたが、まだ見慣れなかった。
「何時に寝たの?」
「三時近くかな……覚えてない」
眠くて目が開かなかった。歯磨き粉をつけても、歯ブラシが何度か頬の横へずれ、ようやく口へ入った。言葉も、はっきりしなかった。
一度の休みで、どれほど成績が上がるか、由紀も期待しきれなかった。番号を塗り間違えた件を除いても、娘は国語と英語が少しましなくらいで、ほかは運がよければ、ようやく合格点に届く程度だ。むしろ気になるのは、最後の試験室で、娘がいじめられないかということだった。
「一年のときも、そこまで後ろの試験室には行かなかったでしょう。前に友達から聞いたけど、あそこは、まともに受ける気もなくて、入ったら寝る子もいるんだって。気をつけてね。ほかの子が何をしてても、自分の答案を書いて、構わないこと」
娘が、ごろごろと口をすすぐのを見て、さらに言った。
「写そうとする子がいたら、隠しなさい。脅されたら、手を上げて監督の先生に言うの。無理に張り合わないで。わかった?」
濃いコーヒーの不快感が、まだ残っているようだった。夏帆は頭が重く、ただ、うん、うんとうなずいた。学校へ向かう間にも、母はいろいろ話した。聞こえた言葉もあれば、抜け落ちたものもあった。
頭の重さは、第九試験室までついてきた。用紙が配られて、少し目が覚めた。開始から十五分後には、すっかり覚醒していた。
八時半。ほかの試験室では、多くが答案に向かっているのに、ここには欠席者もいれば、寝ている生徒もいた。起きている数人も、ペンを回したり、消しゴムをいじったりしていた。
隣の三十八番だけが、違った。
試験室の後ろの扉が開き、明るい日差しが、廊下から差し込んでいた。少年の横顔は痩せ、目を伏せ、問題だけを考えているようだった。それなのに、マークし終えた解答用紙は、消しゴムで押さえられ、何の遮りもなく、自分に最も近い机の端へ置かれていた。
夏帆は複雑な気分で見た。監督の教師は、斜め向かいの窓際にいて、まだ気づいていなかった。答えを見ないようにし、できるだけ机の前へ身を伏せた。反対側から、こっそりのぞく視線も、遮った。
後ろから数えたほうが早い試験室へ来たのは、初めてだった。これを最後にしたい。ところが隣に座るのは、優等生の中でも飛び抜けた一人で、自分が問題を読むより速くページをめくり、解答用紙まで目の前へ出している。
母に話しても、寝ぼけたのだと思われるだろう。




