金木犀の向こうに
普通のクラスの生徒なら、点数で負けても、新入りを、クラスの名を上げてくれる仲間として受け入れられた。だが、競技グループの一部は、学校から派遣される機会も順位も、失ってはいけない自分のものと、とうに決めていた。
榊野の競技数学の塾は、小学校から競争が始まった。長く一対一で教われば、普通の家庭には負担しきれない費用になる。ここには、競技の実績と大学の特別選抜を狙い、一般入試の道のりを少しでも減らしたい生徒が多かった。今、押し合って奪っているのは、学園に限られた、学校間の派遣枠だった。
篠塚は上位にいて、立場は安定していた。選抜の境目にいる三年生たちは、落ち着かず、黒田の取り巻きへ混じった。相手の痛いところばかりを、選んで口にした。亮太は、その顔を見て、わざと聞こえるように放つ言葉を聞きながら、蒼介が先に手を出すのを待っているのだと感じた。処分を受け、席を空けてくれればいいのだ。
教室の大半は、うつむいて、聞こえないふりをしていた。亮太は聞くほどに気分が悪くなり、振り向いて、黒田の机へゲルインクのペンを押しつけた。
「去年の相原のこと、誰も覚えてないとでも思ってんの? 普通に通ってた女子が、うつ病になったって聞いたぞ。泣いて答案も書けなくなって、学校にも来なくなった。お前らが毎日、脅してたのと、関係ないって言うのか?」
青ざめた黒田を見据えた。
「そりゃ、この二年、大学附属に勝てないわけだよ。片岡先生、毎日焦ってるけど、何を焦るんだろうな。お前ら追い出せば、全部、静かになるのに」
黒田は顔を暗くしたまま、何も言わなかった。隣の男子たちが勢いよく体を起こし、亮太を押した。
「誰に言ってんだよ」
「もう一回言え!」
廊下の足音が近づいた。亮太は口の端を曲げ、両手を高く上げて振り向いた。扉がきしんで開いた。
「全員、もう解けるのか? 何を騒いでる」
野上の声は厳しかった。教室を見回し、窓際へ座った。さっきまで顔を寄せていた生徒たちが、一斉に手を引き、姿勢を正した。
「構わなくていい。三崎、続けて」
プロジェクターの白い光が、少年の横顔を照らしていた。カーソルを動かし、問題の後半を説明した。筋道は途切れず、顔も、ずっと平静だった。亮太は席へ戻り、教壇を見た。それでも、胸の火は収まらなかった。
それから野上は、毎晩、練習を見に来た。週の半ばには、表立ったからかいは収まった。残ったのは黒田の取り巻き数人で、ときどき小さな嫌がらせをした。小さなチャットグループで加工した悪ふざけの画像を回し、プリントを配るときは、インクのついた一枚を最後まで残して、何気ないふりで蒼介の机へ放った。
亮太は呆れて目をむいたが、隣の人間は、見向きもしなかった。ただ、十月の暑さが少しずつ引いたころ、上着を脱いだ。
男子なら誰もが持っている、半袖の制服だった。けれど、彼が着るのを見るのは初めてだった。肩と腕の線は、薄く、はっきりしていた。とても白い肌に、新旧の傷が交差し、天井の灯りに照らされていた。不自然な形の右手も、出ていた。後ろの厄介な連中は何度か見たが、何も言わなかった。
ようやく思い知らせてやる気になったのかと、亮太は思った。すばやく紙を押し出した。
【今日の放課後? 何時にやる? 見張り? それとも一緒に?】
最後の文字は、力を込めすぎて、紙の裏に跡がついた。もう、我慢の限界だった。痛い目を見なければ、わからない連中もいる。
蒼介は目を落とし、返事を書いた。
【大会が大事。手は出さない】
◇
ただ、隠しても、もう仕方がないと思っただけだった。どれほど袖で包んでも、人に見られたものは隠せず、体面も残せない。誰もが知っていて、自分だけがまだ隠している。その格好のほうが、おかしかった。
◇
十月になり、金木犀が咲いた。空気に、甘い香りが染みていた。到達度テストでクラスの成績がよく、沢田も少し緩んだ。四組の日々は、以前より軽やかだった。
夜の自習が終わると、実乃里は鞄を整え、振り向いて、ミルクキャラメルの一列を半分、夏帆へ分けた。隣の、書籍の積まれた空席を見て、少し止まった。
「隣の人、ほんとに姿見せないね。どのくらい戻ってない? 一週間くらい?」
夏帆は口へキャラメルを入れ、指を折った。
「四日」
来月が大会で、このところ、競技グループの練習はさらに厳しく、夜も、自分たちより長いらしかった。それでも、数学と物理のプリントは、決まった時間に書き上がっていた。誤解を招かないようにと、教室の外の金属製ロッカーへ入れ、こっそり取れるようにもしてくれた。
名目上、ロッカーは蒼介に譲ったが、ほかの物は何も入っていなかった。暗証番号さえ変えず、四一五のままだった。毎日、決まった時間に取りに行くのは、牛乳の定期配達のようだった。長く受け取っていると、代金を払うべきな気がした。
前の人生の夫という関係は、誰にも説明できなかった。誤解されるのも怖く、プリントのことは、ずっと内緒にしていた。
数学のプリントを集める男子は黒田と親しく、まだ教室に残っていた。夏帆は、その背を軽くつついた。
「競技のほう、今、何時に終わるの?」
「九時半じゃない?」
男子は眉を上げ、自分の詳しさを、少し自慢げにした。
「あいつらの時間割、知らないだろ。やばいよ。黒田が言ってたけど、テストばっかりで、何日も温かい晩飯、食えてないって。母親に持ってきてもらってるらしい」
誰かが新しい苦労をすると、それまで借りて自慢する。実乃里は聞く気をなくし、鞄を背負って寄ってきた。
「一緒に帰る?」
夏帆は時計を見た。九時二十分。あと十分だった。自分も鞄を背負ったが、入口まで行くと、また下ろした。
「実乃里、先に帰ってて。外の物、片づけてくる」
◇
集中練習の教室は、普段と違った。SとAが一緒に座り、人数もずっと多い。知らない男子が、ほとんどだった。扉は開いていたが、時間になっても、あまり出てこなかった。
夏帆は両手でリュックの肩紐を握り、入口にしばらく立った。いきなり入る勇気は出なかった。壁際で、もうしばらく待つと、イヤホンをつけた亮太が、こちらへ急いで来た。慌てて手を伸ばし、呼び止めた。
「……覚えてる? 三崎の友達なんだけど。まだ、教室にいる?」
亮太は一度、彼女を見た。どんな友達かとは聞かず、引き返した。扉へ寄りかかり、声を上げた。
「三崎隊長、女子が来てる!」
教室が二秒ほど静まり、すぐに口笛があちこちで鳴った。悪意のあるからかいも、何言か混じった。
◇
蒼介は、こういう見物に来る人間が、いつも煩わしかった。練習が終わっていたので、鞄を背負って出る気になっただけだった。上着も着ず、扉をまたいだところで、一瞬、足が止まった。
管理棟の窓の外には、学園でいちばん大きな金木犀があった。真夏には濃い緑だけだった枝に、秋になって、小さな金色の花が寄り合っていた。いつの間にか、枝いっぱいに咲いていた。
少女は、その花の木を背景に立っていた。明るく、ひと目で見つかった。窓の外を長く見ていなかったからか。それとも、長いこと彼女に会っていなかったからか。この瞬間、ようやく、あの香りが戻ってきた。
夜風が、濃く甘い花の香りを顔へ運んだ。ぼんやりと、それが彼女から匂っている気さえした。




