「俺のことが好き」
夕食時が近づき、店は次第に混み始めた。脇の重いガラス扉が開き、塾を終えたばかりの少年少女が、笑いながら入ってきた。歩くたび、服の裾が軽く揺れた。店内放送は、そのころ流行っていた恋の歌に変わり、さっきより少し大きな音で流れた。女性歌手が歌うのは、放課後の時間と、とうとう聞こえなかった呼び声だった。
歌が耳をかすめても、夏帆は自分の手のことしか考えられなかった。千紗にポテトを半分以上食べさせ、もともと指先にはケチャップがついていた。それが今はなくなり、少し冷たい湿り気だけが残っていた。まだ、彼の唇がそこに触れているようだった。
前の人生で結婚してから、蒼介はいつも冷たく、それなのに、やけに夏帆のことを管理したがった。結婚して最初の年、姑や義妹と一緒に、年末の食卓を囲んだ。まだ少し緊張していた夏帆は、美津子に茶を注ぎ、千紗がおとなしく座っているのを見て、取り箸で煮込み肉をいくつか皿へ取ってやった。
夫との間に愛情があるとは言えなかったが、妹ができた感覚は新鮮だった。もう一杯、スープもよそってやろうとすると、彼が険しい顔で手を伸ばし、器を引き取って、自分でよそった。
あの煮込み肉の皿には、最後まで手をつけなかった。夏帆は怖くて、どれほど自分を嫌っているのだろうと考えるばかりだった。家族を気遣うことさえ、気に入らないのか。それからは、食べさせるような親しい仕草を、試すこともなくなった。
十年あれば、人はずいぶん変わる。それにしても、十七歳の彼が、かがんで自分の手から食べたことには、まだ気持ちが追いつかなかった。
四人掛けのテーブルで、蒼介は千紗の隣に座った。鞄は片方の肩に掛けたまま、平然としていた。夏帆はひとりでしばらく気まずがったあと、その居心地の悪さを、ひとまず流すしかなかった。
兄が隣に来ると、千紗は、さっきまで椅子へ上がったり下りたりしていたはしゃぎ方をやめた。両腕をきちんと机に載せ、ポテトを一本食べるにも、先生の質問に答えるようだった。
蒼介が目を向け、手を動かした。千紗は口の中のものを飲み込んだ。
「お小遣いは使ってないよ。夏帆お姉ちゃんが買ってくれたの」
少しして、また小声で付け足した。
「お姉ちゃん、手話わからないのに。こうやって内緒話するの、よくないよ」
彼はわずかに眉を上げ、夏帆を見た。夏帆は慌てて首を振った。
「大丈夫。いつもどおりに話して」
言い終えたところへ、千円札が二枚、差し出された。驚いて、急いで押し戻した。
「千紗ちゃんに、おやつ付き合ってもらいたかっただけだから。こんなに要らないよ」
金をしまうまで見届けた。お釣りを用意するつもりかもしれないと、急いで話題を変えた。
「千紗ちゃん、手話を習ったの?」
「二年たってない。まだ慣れてないから、ひとまず困ったときに使ってる」
夏帆はうなずき、また彼の手を見てしまった。妹がどれほど使えるか、よくわかっているらしい。けれど先ほどの慣れた動きを思うと、千紗は兄から習ったのかもしれなかった。
長いこと見られていた手が、ついにテーブルの上から引かれた。そこでようやく、金曜から気にしていたことを、まだ聞いていないと思い出した。
「クラスのグループの書き込み、見た?」
「見た」
こちらを向かれると、夏帆はまた落ち着かなくなり、手を握った。
「心配しないで。沢田先生には話したから。黒田たちが、刑務所にいたなんて作り話をしてるの、学校も放っておけないよ。匿名掲示板の嘘の投稿も、削除された。私も前に書かれたことあるけど、最初は噂してても、何日かしたら、誰も言わなくなるから」
話すほど声が小さく、柔らかくなった。さっき、千紗をなだめていたときと、よく似ていた。
◇
まるで、自分までいじめられた小学生になって、守ってもらっているようだった。馬鹿げている。そう思うのに、胸の奥の細かなむずがゆさが、手足へ広がっていった。
耐えがたくて、本能的に、その言葉を止めたくなった。ひどいことを言う必要もない。家で大切に育てられた、こういう娘には、少し本当のことを話すだけで、十分だろう。
澄んだ目を見つめ、二秒ほど置いた。
「傷のことは、全部が嘘ってわけじゃない。自分で切ったのも、かなりある。信じないなら、見せてもいい」
「……うん」
一瞬、動きが止まった。けれど理由を聞こうともせず、予想していた嫌悪や怯えも浮かべなかった。ただスマホを出し、注文画面を開いた。いちばん上まで戻し、新商品の中から最も高いセットを二つ選ぶと、顔を上げた。
「お腹、すいてる?」
答える前に、またまばたきをし、少し眉を寄せた。
「私、ちょっとすいちゃった。ビーフバーガーもチキンも食べたいし、セットのシールも欲しいの。でも、一人分だと食べきれなくて」
◇
夏帆は、彼が転校してきた日と同じように、上着の袖口を軽く握り、引いた。
「千紗ちゃんは、もうお腹いっぱいだし。残したら、もったいないでしょ。手伝ってくれない?」
子どものころの蒼介は、どうすれば機嫌がよくなるのだろう。大人になった彼のことさえ、わからないままだった。けれど、目の前にいるのは、まだ十七歳だ。そう考えると、子どもに思えて、あまり怖くなくなった。この年なら、チキンやハンバーガーは好きだろう。
夕方の注文が重なり、今回は、さっきより待ち時間が長かった。千紗には新しい宿題が出されていた。鉛筆の端をかじり、絵の中のキリンや子豚を数えていた。夏帆は頬杖をつき、メッセージを返すふりをしながら、ときどき向かいを盗み見た。
蒼介は遠くの呼び出し画面を見てから、筆談に使った小さなノートへ、人差し指を置いた。
「見てもいい?」
「どうぞ」
ピンクの苺が印刷されたページを指に挟み、後ろから、一枚ずつめくった。読み仮名を振った遊びのルールの横には、雑な絵が描かれていた。花、猫。その前には、手をつなぐ、大きな棒人間と小さな棒人間がいた。きのこ頭で頬が赤いのが千紗、長い髪を下ろし、口を開けて笑っているのが夏帆だった。
そのページで、少し長く止まった。固かった口元が、ほんのわずかに動いた。一瞬でも、夏帆には見えた。遅れて恥ずかしさが込み上げ、唇を噛んだ。何か説明しようとするうちに、彼は、ナイトライトのおまけについて話したページへ進んでいた。
ここは、まだましだ。陰で彼のことを書いた、あの一行さえ、気にしなければ。
「千紗に、白雪姫を当ててあげたの?」
「うん。運がよかったから」
少し顎を上げた。けれど隣の空席にある白い鞄へ、彼の目が向くと、また後ろめたくなった。鞄は膨らみ、四角い箱がいくつも角を作っていた。どう見ても、一つだけ引いた形ではなかった。
戻ってきた目は、二度の人生で、よく知っているものだった。夏帆は顔をそらし、小さく弁解した。
「千紗ちゃん、好きなんだもん。賢くて、可愛いし」
小学一年の子には、唇を読むのは難しかった。それでも、自分の名前はわかる。しばらくよそ見をしていた千紗が、勢いよく顔を上げた。
「私のこと言ってる! 何て言ったの?」
蒼介は脚で椅子を支え、肩に手を添えて座り直させると、手話で伝えた。いつもの制服に、冷たく澄ました顔のまま、長い手だけが、続けて形を変えていった。隣のテーブルにいた同年齢の女子が何人か、こちらを見て、顔を寄せて何か話した。兄妹は変わらず会話を続けた。
夏帆には、わからなかった。ただ、千紗の顔が、どんどん赤くなった。はにかんだ目を夏帆へ向け、また兄へ、同じ手振りを繰り返した。期待に満ちた目だった。兄がうなずくと、喜んで口を押さえ、椅子の上で体を揺らした。
何度も繰り返された動きは、夏帆にも覚えられた。わからないほど、知りたくなった。こらえきれず、彼の腕を軽くつついた。
「ひとつ、聞いていい?」
会話だとわかっているのに、のぞき込むのは、盗み聞きのようだった。顔が熱くなった。まず彼を指し、覚えたとおりに、親指と人差し指を喉の前で開き、斜め下へ寄せた。最後に、自分を指した。
「これ、どういう意味?」
◇
前後が逆だった。表情も、合っていなかった。少し赤くなった顔と、かすかに開いた唇。好奇心に、恥ずかしさも混じった目を見ていると、場違いな意地の悪さが浮かび、直したくなくなった。
蒼介は顔色も変えず、彼女を見た。
「俺のことが好き。そういう意味」




