片手の勝負
千紗の言葉は無邪気だったが、夏帆は胸が締めつけられた。兄が大会を終えれば、あのお金がもらえる。そう楽しみにしているのに、前の人生で、蒼介がそのお金を手にすることはなかった。
高校三年のとき、蒼介は地域の予選で一位となり、日本数学オリンピックの本選出場資格を得ていた。多くの期待を背負いながら、受験を辞退した。その後は消息が途絶え、大学入試の時期にも、学校へ戻ってこなかった。
これからの一年に、何が起きれば、あんな選択をするのだろう。見当もつかない。けれど、兄妹の暮らしが少しずつ崩れていった先を、夏帆は見ている。同じことが繰り返されるのを、黙って見てはいられなかった。
千紗はまだ、心配そうにこちらを見ていた。こんな小さな子の前で泣くのは、さすがに恥ずかしい。夏帆はうつむいて鼻をすすり、鞄から手のひらほどのノートを取り出した。大きな字で書き、少し難しい漢字には、横に読み仮名も添えた。
【私が書くから、千紗ちゃんは話してね。宿題、終わった?】
目の前に立てられたノートを見て、千紗はまばたきをした。
「終わった」
【お兄ちゃんの授業は何時まで?】
「五時」
あと二十分。夏帆は時計を見て、続きを書いた。
【お腹、すいてる?】
「ちょっと」
【キッズセット、買ってあげる。おもちゃはどれがいい? 白雪姫?】
千紗は口を押さえ、小さく「わあ」と声を漏らした。何度も顔を上げて夏帆を見た。うれしそうで、それでいて少し遠慮していた。
「でも、お兄ちゃんが、おもちゃはいっぱい種類があるから、運なんだって。白雪姫が出るとは限らないって」
夏帆は頬杖をつき、ノートへ書いた。
【お兄ちゃんが下手なだけ。あとで見てて】
千紗の目がぱっと輝いた。感心しきった顔で、夏帆を見つめた。夏帆お姉ちゃんは、白雪姫そのものみたいだった。
◇
片岡の甥の陸は、今年、中学一年になった。小学生のころから数学の大会でそれなりの成績を残している。強がりなくせに、自分よりすごい人間には惹かれやすい年ごろだった。蒼介と初めて会ったときも、少し反発していた。ほかの地域で取ったいい点数が、榊野でも通用するとは限らない。
二組の問題用紙を前に置かれても、顔を上げようともせず、勝手にルービックキューブを回していた。人を雇う余裕はある家だ。有名大学の学生から競技数学専門の講師まで、何人も指導に来たが、ほとんどが陸の気性に耐えられなかった。
蒼介はしばらく、彼を見ていた。
「そんなに、帰ってほしい?」
陸は鼻を鳴らし、椅子の上で身じろぎした。
「賭けようか。俺が勝ったら、今学期は毎週末、二コマずつ授業を受ける。ちゃんと聞いて、宿題もやる。君が勝ったら、今日、片岡先生に断るよ。体験授業の代金は、お小遣いにしていい」
最後の言葉を聞いて、陸はようやく顔を上げた。
「何で勝負するの?」
「いちばん得意なキューブ。どっちが早く揃えられるか。俺は片手だけでやる」
「……本気? 俺、小学校で何回も優勝してるんだけど。毎回、三十秒切ってるし!」
蒼介はわずかに目を上げた。
「そんなにすごいんだ。じゃあ、先にどうぞ」
「先にやるよ!」
心から褒められたわけではないと、陸にもわかった。負けるものかと、しばらく息を整えた。互いに相手のキューブを崩したが、蒼介は数回ひねっただけで返してきた。ますます、見下されている気がした。
「教える気ないなら、そう言えばいいじゃん。わざわざ、こんな……」
十五秒の観察時間、陸はまばたきも惜しんでキューブを見つめた。スマホを問題用紙の上に置き、ストップウォッチを動かすと、両手で休みなく回した。
止めたときには、二十四秒を少し過ぎていた。
「見た? この前の大会より、一秒速い!」
頬を赤くし、机を叩いて身を乗り出した。自分のスマホで記録を撮った。蒼介はさほど反応せず、キューブを渡して、もう一度崩すよう求めた。
二十四秒なら、小遣いはもう手に入ったようなものだ。それでも陸は念を入れ、何度もあちこちへひねった。十分に崩せたと思ってから、差し出した。
蒼介が使ったのは左手だった。長い指に包まれると、同じ三×三のキューブが、ずいぶん小さく見えた。計測が始まり、プラスチックの軸が軽く滑った。背もたれへ斜めに寄りかかっていた陸の体が、少しずつ起きた。
最後の面が赤一色に揃う。蒼介は右の人差し指で、計測を止めた。
十二秒六七。
ほとんど、自分の半分だった。
さらに二度やって、毎回、前より速くなった。目が追いつかない。陸は呆然と、その手を見つめた。
「ありえない……」
片手でこの速さを出す人は、動画の中でしか見たことがなかった。
「やりたいなら、今度教える」
蒼介はキューブを返し、問題用紙を開き直した。
「まず、三十分でこれを解いて。わからなかったら聞いて」
さっきまで、いかにも面倒そうな顔をしていた少年が、今度はおとなしくうつむき、ペンを取った。
五時に授業が終わるころには、陸は何かにつけて「三崎先生」と呼んでいた。体験授業の代金が入った封筒を渡しても、なかなか帰ろうとしなかった。
「連絡先、交換してもらっていい?」
「お母さんの連絡先は、片岡先生にもらってる」
蒼介が机のペンを片づけると、陸はそばへ寄ってきた。
「俺と母さんは違うじゃん。塾に仲のいい友達がいて、そいつも問題を見てくれる人、探してるんだ。相談なんだけど、これから中学生は、俺たちふたりだけにしてくれない? ほかの学校のやつも、取らないで」
「ふたりだけにするなら、追加料金が要る」
「え?」
少年が持つ最新型のスマホには、友達追加用のQRコードが表示されていた。蒼介は一度それを見て、淡々と計算した。
「週末は二日ある。午前、午後、それに夜を使えば、十コマ入れられる。ふたりのためだけに空けておくのは、もったいない」
十コマ入れられることと、すでに十人の生徒がいることは違う。そこは曖昧なまま話を進めたが、陸はその計算に乗った。さほど迷わず、うなずいた。
「じゃあ、五倍払えばいいんでしょ? 母さんも、絶対いいって言うよ」
蒼介はスマホを出し、コードを読み取った。
「急がなくていい。次に話そう。来週までは待つから、まず帰って宿題をやって」
陸は承知した。それでも、知り合ったばかりの先生を、先に誰かに取られまいと、帰り際に何度も念を押してから、下へ降りた。
封筒には高級ブランドのロゴが印刷され、口は開いたままだった。蒼介は少し広げ、中に一万円札が二枚あるのを確かめた。一時間半にしては、思っていたより多かった。
鞄を背負い、妹のいるテーブルへ目を向けた。千紗はハイスツールに片膝をつき、楽しそうに身を乗り出していた。向かいにも女の子がいるらしい。長い髪が垂れ、顔の半分を隠している。白い腕だけが見えた。
蒼介は足を進め、近づいた。
トレーにはハンバーガーの包み紙が敷かれ、その上にフライドポテトが交差して積まれていた。向かいに座る夏帆が、妹と棒取り遊びをしていた。
幼いころ、蒼介もやったことがあった。食べ終えたアイスの棒を洗い、乾かして使った。交代で一本ずつ取り、ほかの棒を動かしたら相手の番になる。そういう遊びだったはずだが、夏帆のルールは違った。千紗の手がぶれて一本落ちると、ケチャップをつけ、口へ運んでやる。妹は口の周りを油でつやつやさせ、顔にもソースをつけ、体を揺らして笑い続けていた。
少し見入ってしまい、妹のそばまで来て、足を止めた。
◇
目の前に髪が掛かり、夏帆にはよく見えていなかった。ポテトを持つ手を上げたまま、しばらく待ったのに、千紗が口を開かない。手を替えて、ノートへ書いた。
【お腹いっぱい?】
千紗は首を振った。口を拭き、きちんと座り直した。困ったように夏帆を見て、それから、自分のそばにいる人を見た。
「お兄ちゃんのほうが、食べたいみたい」
振り向くと、蒼介と目が合った。白い制服の上着の下に、黒いTシャツが見えた。夕日が淡い茶色の目へ差し込み、金色を重ねていた。長い睫毛を少し伏せ、まっすぐ、こちらを見ていた。
夏帆はなぜか「うん」と答え、彼の前へポテトを差し出した。二秒ほど経って、自分のしたことに気づいた。気まずく笑い、手を引こうとした。
けれど彼は、もう目を伏せ、かがんで、その一本を口に取っていた。
薄い唇の間に、赤い舌先が少し見えた。温かく湿った感触が、指先に触れた。おそらく、うっかり当たっただけなのだろう。それでも夏帆の鼓動は一拍飛び、肩まで少し縮まった。




